神様

 

 

神の存在論証というものがあります。

 

このやり取りに触れた最も古い資料は、1800年代初めのものであり、ドイツの学者アタナシウス・キルヒャーの逸話が有名です。

 

彼は、惑星を表す球体が、実物そっくりに連動しながら軌道上を回る、精巧な太陽系の模型を、機械工に作らせました。

 

ある日、1人の無神論者の友人が彼を訪ねました。

 

友人は模型を見ると、その動きの見事さに感嘆の声を上げました。

 

「これは、君が作ったのかい?」

 

彼は答えました。「自然に出来たのさ」

 

無神論者は言いました。「こんな精巧なものが自然に出来るわけが無い。製作者がいるはずだ。いったい誰が作ったんだい?」

 

彼はその友人に言いました。「私はこの単なる玩具が、設計者や、製作者なしに存在するということを、君に納得させることが出来ない。それなのに、君は、この模型よりも、ずっと精巧で、複雑である、この世界が、設計者も、製作者もなしに存在しているということは、何の疑いも持たずに、信じれるというのかい?」

 

この論証以降、その友人は神の存在を認めるようになったというものです。

 

話は変わりますが、日本人の商売人は、「お客様は神様」だと言います。

 

本当に神様だと思っているわけではありませんが、それぐらい感謝しようというものです。

 

これは、日本人の美徳を表す、ぴったりの言葉だと思います。

 

お客様によって生かされている。

 

だから、お客様=神様です。

 

日本製の商品が、精巧なのは、「お客様=神様」だという意識があるからです。

 

利益が同じなのに、より精巧なものを作ろうと改良を重ね、努力するのは、その意識が根本にあるからです。

 

儲けだけを考えている人は、時間をかけず、騙して粗悪品を売ろうとします。

 

ブランドの偽物や、コピーが蔓延るのは、儲けしか考えていないからです。

 

よく、日本の技術を盗もうと外国の企業が考えているようですが、根本を変えない限り、私は、無駄だと思います。

 

何故なら、技術は、常に進歩するからです。

 

盗んだ技術も、すぐに古くなります。

 

技術が、古くならないように進歩させるには、どうしたらいいか。

 

儲けを捨てることです。

 

お客様を喜ばそうという気持ちが、最高の商品を生み出すのだと私は思います。

 

日本という国は、そういった意味で、捨てたものじゃないと思います。

 

百貨店などの「CS」(顧客満足度)の尊重にも、頭が下がります。

 

ただ、あまりにも「CS」を尊重し過ぎていて、お客様の無理な注文までも、受け入れてしまいがちな部分は、賛成しかねます。

 

「CS」を尊重するあまり、結果的にメーカーや、取引業者に無理を強いるケースもあるようです。

 

「お客様がご立腹です」と、常識から外れた無理な注文を、そのままメーカーや、取引業者に振ってくるケースです。

 

買って何年もしてから返品したいだとか、チェーンを無料で太いものに交換をして欲しいだとか、サイズ直しをしてから返品したいだとか…

 

法律では、お客様が店舗で購入した場合は、翌日でも、返品を受ける義務はないのですが、「CS」が優先されている為に、受けてしまいがちだということです。

 

ありがたいことに、私の取引をさせていただいている百貨店では、そのようなことはありませんが、日本では、お客様が、わがままになっているのは、間違いのない事実です。

 

そういったデメリットもありますが、食の安全、銃の規制、凶悪犯罪が少ないことなど、国民が安心して暮らしていける住みよい社会は、お客様を神様として考える日本の誇れる長所だと思います。

 

お金ではなく、「お客様は神様」という「他人を愛する気持ち」から、幸福な社会が生まれているものと私は思います。

 

話は変わりますが、他人を愛する事を教えてくれた偉大な歴史上の人物にイエス様がいます。

 

言わずと知れた全世界で20億人以上と言われる世界最大の信者数を誇るキリスト教の教祖になります。

 

彼は弟子のペテロによって「神の子」として崇拝される事になります。

 

しかし、イエス様自身は自分を表すのに「ダニエル書」の救世主を意味する「人の子」を好んで使用したそうです。

 

日本の作家である芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)が自殺前夜に脱稿された「続 西方の人」では、「人の子」であったとするイエス様の気持ちが書かれています。

 

「神の子」と「人の子」の違いは、「聖」と「俗」の違いだと思います。

 

「聖」の代表的なものは「奇跡」であり、マリア様が処女でイエス様を身籠った事などです。

 

「俗」は例えば養父ヨセフとマリア様の二人の子供であったとすると、普通の人間と何ら変わらなくなるのかもしれません。

 

しかし、そうなると、当時、ユダヤの人々に信じられていた「救世主はユダ族から生まれる」という説とは相いれない形になりますし、「性」というものが廃除されなければ、宗教として神々しさが失われてしまうのかもしれません。

 

ただ、間違いのない事実は、イエス様は「俗」な者を差別したり、攻撃したりする事は決してしなかったという事だと思います。

 

「俗」な者にも「愛」を与え、「馬」ではなく「ロバ」を選ばれた方であり、「人の子」を中心にしようとした偉大な救世主だと私は思います。

 

ルカの福音書の14章に宴会の上座の席を取合っているファリサイ派の人々にイエス様が「宴会に呼ばれたら下座の席に座りなさい」と言います。

 

その理由は、上座の席に座っていると、その人より偉い人が登場した場合、主催者からその席を譲るように言われ恥をかくと言い、反対に下座の席に座っていれば、主催者や皆さんがどうぞ上座に座ってくださいと言ってあなたの面目が保たれるとし、「自らを高くするものは低くされ、低くするものは高くされる」と言われました。

 

イエス様が何を言いたいかと言うと、評価は他人がするものであって自分がするものではないという事だと私は思います。

 

自分は仕事だけをして後の評価は他人に任せてしまえばいいことで、「へりくだる」事をイエス様は勧めているのだと思います。

 

他人を貶めて自分の地位を高めようとする人達は他人の評価の中でしか幸せを感じる事が出来ず、哲学者のサルトルの「出口なし」のようにお互いを貶めて地獄を見る形になってしまいます。

 

アメリカの牧師さんで人気作家のマックス・ルケードさんの「たいせつなきみ」という絵本を紹介した動画がYoutubeにあったので一緒に載せておきます。

 
 
 

たいせつなきみ(読み聞かせ) ふたばもえさん

 
 
 
  

「神様」とは本来、「聖」と「俗」を切り離さないものなのに、「人間」が勝手に切り離して解釈しているのかもしれません。

 

「他人を愛する気持ち」を忘れないようにしたいものです。

 

「聖」と「俗」について