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               島根県松江市東出雲町の黄泉比良坂

 

「古事記」に書かれている素戔嗚尊の住む「根之堅州國」(ねのかたすくに)と呼ばれる国があります。

 

死者の国への入口と呼ばれる国です。

 

島根だとか、和歌山だとか、いろいろな説がありますが、私は、「佐賀」(さが)が妥当だという気がします。

 

「根之堅州國」(ねのかたすくに)の「洲」(す)は、「嶋」(しま)のことで、「須賀」(すが)などの「須」(す)と同じです。

 

根の堅い「須の国」(すのくに)…

 

蘇我馬子は嶋大臣と呼ばれ、「須」(す)は蘇我氏を表します。

 

諏訪大社(すわたいしゃ)の諏訪(すわ)も、洲羽(すわ)から来ています。

 

「黄泉比良坂」(よもつひらさか)も同じで、「黄帝(こうてい)の子孫達の住む比羅の佐賀」。

 

比羅は、聖徳太子の教育係で、日本に仏教を導入することを勧めた日羅上人(にちらしょうにん)が関係していると思います。

 

百済生まれの倭人で、九州出身の大伴金村(おおともかねむら)大連に随伴して百済に渡った火葦北国造(ひのあしきたくにのみやつこ)阿利斯登(ありしと)の子で、百済の王に仕え、二位達率という高級官僚の官位を持つ密教系の仏教の高僧だったと言われます。

 

朝鮮半島に対する政策について、百済に不利な内容を朝廷に奏上した為、百済人によって暗殺された人物とされます。

 

日羅(にちら)は日羅(ひら)とも読めるので白髭明神(しらひげみょうじん)の別名の比良明神(ひらみょうじん)を意味するのかもしれません。

 

白髭明神は猿田彦大神と呼ばれ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)=推古天皇と共にあの世に去った藤原鎌足を神格化した神様のようです。

 

ヒンドゥー教のハヌマーンという神様で、西遊記の孫悟空(そんごくう)になります。

 

ヒンドゥー教ではルドラという風神と習合した神様で、日本の荒神(十一面観音菩薩)=土師氏と習合する形となります。

 

孫悟空の悟空(ごくう)とは般若経(はんにゃきょう)の空(くう)を悟(さと)る神様という意味のようです。

 

因みに、天武天皇を表す沙悟浄(さごじょう)の悟浄(ごじょう)は薬師経(やくしきょう)の浄(じょう)を悟るという意味で、推古天皇を表す猪八戒(ちょはっかい)のもう一つの名の猪悟能(ちょごのう)は観音経(かんのんきょう)の能(のう)を悟るという意味のようです。

 

対馬市と、壱岐市以外の長崎県と、佐賀県、熊本県は、昔は「火(肥)の国」という一つの大きな国で、熊襲(くまそ)の住む国でした。

 

火葦北(ひのあしきた)とは現在の熊本県の葦北郡のことで、日羅上人のお墓は、父の阿利斯登(ありしと)と縁があった熊本県八代市坂本町にあるそうです。

 

彼は、修験道の役小角(えんのおづぬ)で有名な愛宕山(あたごさん)の天狗を配下に持ち、その天狗は、愛宕権現(あたごごんげん)、勝軍地蔵権現(しょうぐんじぞうごんげん)とも呼ばれます。

 

勝軍地蔵権現は、火災を防ぐ火伏せの神として信仰され、神道の迦具土神(カグツチ)=(荒神)と同一視されています。

 

荒神(こうじん)は大物主命の荒魂(あらみたま)で、少彦名神(スクナヒコナ)とも呼ばれ物部氏の一部となった蘇我倉山田石川麻呂を意味します。

 

蘇我と名前の頭に付きますが、推古天皇と同族で元は秦氏だった人物と思われます。

 

迦具土神(カグツチ)(火)が、イザナギによって斬られて(薙ぎ払われて)、8人の神様が生れたとされます。

 

8は法輪(ほうりん)を表し、「和(輪)を以って貴しとす」という聖徳太子の言葉の法隆寺(ほうりゅうじ)を意味します。

 

奈良の生駒山の宝山寺(ほうざんじ)が往駒大社(いこまたいしゃ)で「火」を表し、信貴山(しぎさん)の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)が龍田大社(たつたたいしゃ)の「風」を表し、大和川(やまとがわ)の法隆寺が廣瀬大社(ひろせたいしゃ)の「水」を表すようです。

 

大和川は八岐大蛇(やまたのおろち)で、八つの川の一つである富雄川(とみおがわ)が中宮寺(ちゅうぐうじ)の如意輪観音菩薩(にょいりんかんのんぼさつ)に当たり、神武天皇の弓の先に止まった金色の鳶(とび)で、八大龍王弁財天の持統天皇だったものと思います。

 

しかし、壬申の乱で権力が天智天皇から天武天皇に一時期移って、持統天皇が天武天皇の皇后になってしまった事から、持統天皇は沙穂姫(さほひめ)と名前を変えられ、代わりに聖徳太子の妃だったとされる橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が如意輪観音菩薩とされたものと思われます。

 

廣瀬大社のご祭神の若宇加能売命(わかうかのめのみこと)も、最初は市杵島姫と同神だったものを、豊受大神(お稲荷さん)と同神という形になったものと思います。

 

橘大郎女は黄色の山吹の花がシンボルの橘諸兄(たちばなのもろえ)を意味し、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき」という歌のように持統天皇は天武天皇に嫁いで実(子孫繁栄)が出来なくなってしまったという意味だと思われます。

 

藤原不比等(ふじわらふひと)と「橘」の一族である県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)の子の光明皇后(こうみょうこうごう)の血も、称徳天皇(しょうとくてんのう)を最後に「実」が出来ない同じ運命を辿ります。

 

天智天皇の第七皇子の志貴皇子(しきのみこ)の子の白壁王(光仁天皇)に百済の王族である高野新笠(たかのにいがさ)を嫁がせて天武天皇系ではない桓武天皇(かんむてんのう)が誕生し、天武天皇を平(なら)した平家(へいけ)が生まれます。

 

平城(なら)の城(しろ)は白壁王の白(しろ)の意味もあったのかもしれません。

 

天皇としては第48代天皇の称徳天皇(しょうとくてんのう)が持統天皇の血を引く最後の天皇のようで聖徳太子とは称徳天皇の称徳(しょうとく)から付けられた名前なのではないかという気もします。

 

昔の山岳信仰の修験道は、孔雀明王(毘沙門天)を信仰していました。

 

信貴山に祀られている毘沙門天は元々は佐保山(さほやま)の頂上に祀られていたようで、現在は削られて平城山(ならやま)という丘になっていて、宗像三女神を表す三笠山(みかさやま)が佐保山に代わる春の山と言えます。

 

毘沙門天はヒンドゥー教のヴィシュヌという神様で、兜跋毘沙門天(とばつ びしゃもんてん)という「鳳凰」(ほうおう)の兜を付けた太陽神で、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の意味も兼ねていたんだと思われます。

 

中宮寺の如意輪観音菩薩が弥勒菩薩と同じポーズをしているのは弥勒菩薩と毘沙門天を切り離す意図があったのかもしれません。

 

中宮寺が所蔵する天寿国曼荼羅(てんじゅこくまんだら)の亀が円を強調して描かれているのも亀甲紋の六を八(法輪)に変え、推古天皇を象徴する六字真言の観音菩薩を八咫烏の八幡神=輪(鏡)に変える必要があったからだと思います。

 

法輪寺(ほうりんじ)には大黒天のように米俵に乗った姿の米俵乗毘沙門天と呼ばれる仏像がありますが、これはおそらく、毘沙門天に似せた大黒天で、蘇我倉山田石川麻呂を表します。

 

同じくこのお寺の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)は水瓶(すいびょう)を持っていて、本当は観音菩薩なのに明らかに違う名前が付けられています。

 

お隣の法起寺の銅造菩薩像(虚空蔵菩薩)も同じで、姿は救世観音なのに虚空蔵菩薩と呼ばれています。

 

虚空蔵菩薩は法華経の法華文句の三光天子(さんこうてんじ)では日の観音菩薩、月の勢至菩薩(せいしぼさつ)と共に星の虚空蔵菩薩とされ、金星の五芒星がシンボルになります。

 

三十三回忌の最後の「留め」の本尊が虚空蔵菩薩とされるのは菩薩の中で最も位が高く大日如来(だいにちにょらい)そのものと考えられているからのようです。

 

五大虚空蔵菩薩の中央は白で馬に乗り大日如来を表し、東方は黄で獅子に乗り阿閦如来(あしゅくにょらい)、南方は青で象に乗り宝生如来(ほうしょうにょらい)、西方は赤で迦楼羅(かるら)に乗り阿弥陀如来、北方は黒で孔雀に乗り不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)となります。

 

白馬は皇極天皇を象徴する動物です。

 

奈良の東大寺の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)=大仏は、密教の大日如来と同一神だとされますが、右脇侍が虚空蔵菩薩で左脇侍が如意輪観音菩薩になります。

 

東寺は聖武天皇の時代に建てられたので、虚空蔵菩薩が天武天皇と天智天皇の血を引く聖武天皇、如意輪観音菩薩が藤原不比等と県犬養三千代の血を引く光明皇后を意識していたのかもしれません。

 

しかし、桓武天皇が誕生して天武天皇の血が天皇家から外れてからは、虚空蔵菩薩は藤原鎌足を表す猿田彦大神に、如意輪観音菩薩は皇極天皇を表す豊受大神に変えられたものと思われます。

 

六芒星の星を五芒星に変え、毘沙門天を核とする仏教ではなく、五大明王の怒りを肯定した聖天さん(生駒山)やお稲荷さん(信貴山)の密教と結びつける意味があるのだと思います。

 

そして、第11代天皇で橘を手に入れたお稲荷さんを表す垂仁天皇(すいにんてんのう)を神格化した土師氏の十一面観音菩薩像が平安時代以降には造られ祀られています。

 

猿田彦大神の別名、比良明神(ひらみょうじん)の比良には「黄泉比良坂」の冥府の神という側面も持っているということになります。

 

不老不死を願った秦氏を冥府に連れて行く役割です。

 

それから、「坂」(さか)を、日本武尊(ヤマトタケル)は「栄」(さか)と良い字を当てましたが、悪い意味の字を当てると、「逆さま」という意味もあり、逆流を意味するタギシミミの「滾る」という意味もあります。

 

あと、「酒」(さか)という字も使われます。

 

素戔嗚尊(スサノオ)が、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)にお酒を飲ませて、寝ている隙に退治するという神話が有名です。

 

「坂」は、仏教の「釈迦」(しゃか)が訛ったもので、毘沙門天の仏教を日本に持ち込もうとした「蘇我氏」を表しているのかもしれません。

 

京都の祇園(ぎおん)に、八坂神社(やさかじんじゃ)という神社があります。

 

弥栄神社(やさかじんじゃ)とも書くそうです。

 

「八」(や)は弓矢の「秦氏」を表しているので、「八」と、「坂」の組み合わせは、「秦氏」と、「蘇我氏」の組み合わせです。

 

ご祭神は、素戔嗚尊(スサノオ)と、その妻の櫛稲田姫(クシイナダヒメ)と、子供の八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)=八王子の3神です。

 

八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)が秦氏を八等分した八咫烏(やたがらす)で、大国主命に成る蘇我倉山田石川麻呂を意味します

 

素戔嗚尊(スサノオ)が「蘇我氏」で、櫛稲田姫(クシイナダヒメ)は「秦氏」を象徴する天照大神だと思われますが、頭に縄文時代からあった「櫛」(くし)と付く為、推古天皇を象徴するものと思われます。

 

「八坂」も、「八上(八神)」も、「八十(八蘇)」も、「八島(八洲)」も、同じ組み合わせで、秦氏と、蘇我氏が協力して繁栄したという意味になります。

 

弥生時代(やよいじだい)の「弥生」(いやおい)は、「弥栄」とも書きますが、隅々まで草木が生い茂る様子を表し、稲穂が豊富に実った大地を表しているんだろうと思います。

 

つまり、素戔嗚尊(蘇我氏)と、櫛稲田比売(秦氏)が協力して稲穂の国を作ったということです。

 

鹿児島県には、隼人(はやと)という渡来人が住んでいました。

 

よく隼人(はやと)と、熊襲(くまそ)は同じ民族のことではないかと言われていますが、

 

同じ渡来人でも、私は、厳密には違うと思います。

 

隼人(はやと)は、隼(はやぶさ)であり、「鳥」がシンボルの民族です。

 

私は、「秦氏」のことで、隼人の住む薩摩(さつま)の語源は、「薩満(サマン)」から来ているのではないかと思います。

 

「薩満(サマン)」とは、シャーマン(霊と交信したり、占いをする者)のことで、女真、満洲族(じょしん、まんしゅうぞく)などが有名です。

 

唐によって滅亡させられた高句麗の遺民と、中国東北部に存在した農耕漁労民族の靺鞨(まつかつ)が合流して渤海国(ぼっかいこく)を建国し、後に女真族(じょしんぞく)と改名して、「金」という国を建てます。

 

「金」は、「遼」、「北宋」を滅ぼし、「西夏」を服属させ、12世紀には、中国の北半分を支配して、中国南半の「南宋」と対峙しますが、モンゴル帝国の「元」によって滅ぼされます。

 

その後、17世紀に同じ女真族が「金」(後金)を復活させ、ヌルハチと呼ばれる人物が、「清」(しん)と改名し、女真族という民族名を「満洲」(まんしゅう)と改名します。

 

女真、満洲族は、日本では、「刀伊」(とい)とも呼ばれ、中国から見た「東夷」(とうい)に当たり、現在、中国の雲南省に多く居住する「イ族」(彝族)とは同族だと思われます。

 

「イ族」は、中国西部の古羌(こきょう)の子孫だと言い、チベット族、納西族(なしぞく)、羌族(きょうぞく)の先祖でもあると言われます。

 

これらの民族に共通するのは、米を主食とし、龍を信仰する民族だということです。

 

「清」(しん)を建てたヌルハチは、自分を文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身だとして、サンスクリット語の「マンジュシュリー」から民族名を「満洲」(マンジュ)と改名します。

 

「清」(しん)という漢字は「清水寺」(きよみずでら)の「清水」(きよみず)や、「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう)の「清水」(しみず)などにも使用されますが、中国の山西省北東部にある五台山の異称で、文殊菩薩の山とされる清涼山(せいりょうざん)の「清」(せい)から取られたのかもしれません。

 

五台山(ごだいさん)は文殊菩薩、峨眉山(がびさん)は普賢菩薩、九華山(きゅうかさん)はお地蔵様、普陀山(ふださん)は観音様の住む聖地とそれぞれの山が当てられています。

 

能の「石橋」(しゃっきょう)は清涼山に架かる幅が一尺(約30cm)にも満たない細い橋で、その先に文殊菩薩がいるのですが、苔が覆っていて滑り易く、足を踏み外したら橋の下は千丈(約3000m)の谷底だとされます。

 

天台宗の僧の寂昭(じゃくしょう)が仏道修業のため宋国に渡り、清涼山の中で「石橋」を渡ろうとしたところ、獅子が岩陰の牡丹にたわむれているのを見たことから来ているそうです。

 

天台山は浙江省(せっこうしょう)にある山で、文殊菩薩の五台山とは違う山で、「石橋」のような橋が実在するのは天台山のようです。

 

「石」や「牡丹」と関係の深い蘇我倉山田石川麻呂を「文殊菩薩」と結び付ける意図があるようです。

 

歌舞伎の「連獅子」(れんじし)で、白い毛の親獅子が赤い毛の子獅子を千尋の谷に突き落とすのも、白が赤よりも上である事を表現する為だと思われます。

 

文殊菩薩は、獅子に乗った姿で表されますが、龍とも係わりが深く、日本では智慧の神である蘇我倉山田石川麻呂の思兼神(おもいかねのかみ)、或いはその孫で八大龍王弁財天であった持統天皇が文殊菩薩と同一視されたように思われます。

 

丑寅の方角の奈良の般若寺(はんにゃじ)では八大龍王弁財天や、八幡神などを意識させる八字文殊菩薩(はちじもんじゅぼさつ)と呼ばれる仏様が本尊とされています。

 

その名前の由来は真言の字数が八字だからという事だそうですが、不動明王(天智天皇)に仕えている

 

慧光童子(えこうどうし)

 

慧喜童子(えきどうし)

 

阿耨達多童子(あくたどうし)

 

指徳童子(しとくどうし)

 

烏倶婆童子(うぐばかどうし)

 

清浄比丘(しょうじょうびく)

 

矜迦羅童子(こんがらどうし)

 

制叱迦童子(せいたかどうし)

 

の八大童子(はちだいどうし)を指し、髪を八髻(はっけい)に結ぶ童形の文殊菩薩で高野山金剛峯寺所蔵の八髻文殊曼陀羅(はっけいもんじゅまんだら)が有名です。

 

般若寺の文殊菩薩が八を選んだ理由は、八時が申(猿)の方位で大日如来の方位とされるからだと思います。

 

志貴皇子(しきのみこ)を弔う目的で建てられた般若寺の北側にある奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)の御神体の平城津彦神(ならつひこしん)は天武天皇を均(なら)した第51代天皇の平城天皇(へいぜいてんのう)を表しているのかもしれません。

 

平城天皇は第50代天皇の桓武天皇に藤原式家の藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ)を皇后にして生まれた第一皇子です。

 

そして、第二皇子の第52代天皇の嵯峨天皇(さがてんのう)が即位し、平城(なら)と嵯峨(さが)でこの神社の地名になる奈良坂(ならさか)になります。

 

嵯峨天皇の皇后が橘氏の中で唯一、皇后となった橘嘉智子(たちばなのかちこ)で、河内長野市にある観心寺(かんしんじ)に橘嘉智子をモデルにしたとされる如意輪観音菩薩像が存在します。

 

母に藤原式家の藤原百川の娘、旅子(たびこ)を持つ桓武天皇の第七皇子であった第53代天皇の淳和天皇(じゅんなてんのう)の第四妃の小萩(こはぎ)=真名井御前(まないごぜん)も、兵庫県西宮市甲山山麓にある神呪寺(かんのうじ)に、真名井御前をモデルにした如意輪観音菩薩像があります。

 

真名井御前は安曇氏(あずみし)の勢力圏である丹後の国の出身で、日下部氏(くさかべし)の出身である可能性が高いと言われていますが、日下部氏の日下部は、天武天皇(毘沙門天)と持統天皇(弁財天)の子であった草壁皇子(くさかべのみこ)を意味します。

 

神呪寺は元々は弁財天を祀っていたようですが、真名井御前は、豊受大神(外宮)=お稲荷さんの元伊勢である籠神社(このじんじゃ)の奥宮の真名井神社(まないじんじゃ)を意味するようで、空海に師事し、如意尼(にょいに)という法名を貰っていたそうです。

 

日本三大如意輪観音菩薩のお寺は、兵庫の神呪寺(市杵嶋姫)、大阪の観心寺(多紀理姫)、奈良の室生寺(多岐津姫)で、宗像三女神の「三輪」(みわ)が如意輪観音菩薩の法輪の「輪」(わ)の「三井」(みい)になるようです。

 

如意輪観音菩薩の材質ですが、神呪寺が桜、観心寺が榧(かや)、室生寺が檜(ひのき)で、法隆寺が楠(くすのき)になります。

 

榧(かや)は信貴山の朝護孫子寺の「榧の木稲荷」(かやのきいなり)=白狐(びゃっこ)=白虎(びゃっこ)を表す木で、秦氏を日本に連れて来た葛城氏の国があった朝鮮半島の伽耶(かや)を指します。

 

葛城氏は日本で秦氏と同じ土地に住み婚姻が進み、秦氏と同族となったようで、皇極天皇を意味するようです。

 

「榧」(かや)と同じ読みを持つ魔除けの「茅」(かや)=ススキは「神のご加護」の「屋根」=「傘」(かさ)を象徴するようです。

 

因みに玉虫(たまむし)の食材となる木は、榎(えのき)、欅(けやき)、桜、榧(かや)ですが、欅の古語は槻(つき)と呼ばれ、天武天皇を表す木になります。

 

日本で最初に毘沙門天が祀られたのが大阪の高槻市(たかつきし)の神峯山寺(かぶさんじ)で、高槻(たかつき)は高い欅の木を意味します。

 

その後、三体の毘沙門天が、京都の鞍馬寺、大阪の北山本山寺、奈良の朝護孫子寺の三つのお寺に分けられ、神峯山寺では、新たに縦に並んだ毘沙門天、双身毘沙門天(そうしんびしゃもんてん)、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)の三像が祀られています。

 

双身毘沙門天は妃である吉祥天と双身なのですが背中合わせになっていて奇妙な形であり、兜跋毘沙門天も力が強すぎるから弱める為にと身体にお経を埋め込んであると言われるそうです。

 

そのお経が何のお経なのかは気になりますが、不二法門(ふにほうもん)を説く「維摩経」(ゆいまきょう)だったりすると理解できます。

 

不二(ふに)は不二(ふじ)であり、不死鳥の不死(ふし)でもあり、永遠の命を求める鳳凰の冠を被った毘沙門天への密教の答えを表しているものと思えるからです。

 

生も死もなく、二月は不二(如)の月で、如月(きさらぎ)と読みます。

 

如来(にょらい)とは無分別の

 

欅は材質が硬く木目が顕著に表れる事と、乾燥するとひび割れがしやすい木なので本来は彫刻の材料としては適さない木だそうですが、岩手県花巻市の三熊神社、成島毘沙門堂の毘沙門天立像は高さ4.73mmの欅の一本彫成仏として日本一を誇ります。

 

天武天皇(毘沙門天)を欅で表す為に、敢えて欅で彫られたものと私は思います。

 

法隆寺の玉虫厨子(たまむしずし)は天武天皇が蘇我倉山田石川麻呂、皇極天皇と玉虫色に姿を変えて推古天皇(観音菩薩)を覆う厨子になるという意味があるのかもしれません。

 

私は孔雀明王も、韋駄天(いだてん)も、毘沙門天も、弥勒菩薩と同一神だったと思っています。

 

ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズター(阿修羅)に仕えるヤザタの一人のミスラ(ミトラ)です。

 

これがインドに伝わりアーディティの6人の子供の一人としてヴィシュヌ(毘沙門天)が信仰され、アーディティヤ神群と呼ばれます。

 

韋駄天(スカンダ)が孔雀に乗り六つの顔を持つのは清少納言が最も美しい星と讃えた牡牛座の散開星団であるプレアデス星団(スバル)が韋駄天のシンボルで、古来、日本ではこの星を六連星(むつらぼし)と呼びました。

 

このアフラ・マズターの子ミスラが、ユダヤ教の救世主信仰と結びついて、聖母マリアの子イエス様の信仰が生まれます。

 

救世主である毘沙門天のシンボルはヒットラーのナチスと同じ「卐」(逆まんじ)で太陽の光線を意味しましたが、日本の仏教寺院では逆向きの大黒天を表す「卍」(まんじ)を使用しました。

 

法隆寺の金堂上重と五重塔の高欄や四天王寺の高欄、薬師寺東塔などの組子にも卍崩しが使用されています。

 

日本の伝統文様の卍崩しの文様も、天武天皇がシンボルとした毘沙門天を崩すという意味が籠められているものと思います。

 

弥勒菩薩は荒神の使いとして布袋さんとなり、毘沙門天は多聞天として鰐(ワニ)の神、金毘羅さんとなり、韋駄天は道教を広めた中国南朝の宋・南斉・梁の武将の韋叡(いえい)=韋将軍(いしょうぐん)と習合し、お釈迦様の食事を提供する「御馳走」(ごちそう)という言葉を生み、神饌のお皿である「梶の葉」(かじのは)として御饌津神(みけつのかみ)=お稲荷さんと習合します。

 

天武天皇が酒吞童子(しゅてんどうじ)や制多迦童子(せいたかどうじ)など、童子として強調される理由は、親である皇極天皇に吸収させる目的があるようです。

 

法隆寺の北側にある法輪寺(ほうりんじ)が昔は三井寺(みいでら)と呼ばれたのは、聖徳太子の掘った三つの井戸に由来し、この寺の乾の方位にあたる三井の井戸(赤染の井)が元々は弁財天の「巳」(みい)を表していたものと推測出来ます。

 

そして、天武天皇の血が皇室に入らなくなった平安時代からお稲荷さんである妙見菩薩(みょうけんぼさつ)や、十一面観音菩薩を法輪寺に祀ったものと思います。

 

京都嵐山の秦氏の祖神を祀る虚空蔵法輪寺(こくうぞうほうりんじ)は元々は三光明星尊をお祀りしていたそうで、かつては葛野井宮(かずのいぐう)と呼ばれ、葛(くず)=国栖(くず)=秦氏を指していたようです。

 

奈良の奈良豆比古神社は奈良坂春日社と呼ばれていた時期もあり、春日大社の藤原氏に天武天皇が吸収された事を意味するのかもしれません。

 

密教の文殊菩薩には更に、弁財天と同一視される妙音菩薩(みょうおんぼさつ)があり、日本では髪を三髻(さんけい)に結び琵琶を持った姿で描かれますが、「三人よれば文殊の知恵」と、弁財天をリーダーとした宗像三女神を意識したものと思われます。

 

しかし、一、五、六、八字の四種類ある真言で、髪の結いかたも一髻、五髻、六髻、八と四種類ある文殊菩薩の中では特殊な形態だと言えそうです。

 

密教では妙音菩薩(みょうおんぼさつ)の他にも、憤怒の化身である大威徳明王(だいいとくみょうおう)が文殊菩薩と同体だとされ、六面六臂六脚で、水牛にまたがっている姿で表されます。

 

六面六臂六脚の六には六道輪廻(地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)と六波羅蜜(布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧)の意味があるようですが、推古天皇である観音菩薩の六を蘇我倉山田石川麻呂の八(法輪)に吸収する目的があるようです。

 

蘇我倉山田石川麻呂の子孫である菅原道真(すがわらみちざね)の御霊(ごりょう)に「日本太政威徳天」の神号が追贈されていますが、御霊の威力を大威徳明王と習合させて「怒り」を「鵤」(いかるが)として、毘沙門天や観音菩薩に代わる大黒天(大国主命)に集合させる目的があったようです。

 

文殊菩薩は通常、右手に剣を持ち、左手に般若経の乗った青い蓮華を持つ姿をしていて、この剣は五智(ごち)の剣と呼ばれ、五智五仏にして法界体性智(大日如来)大円鏡智(阿閼如来)妙観察智(弥陀如来)成所作智(釈迦如来)平等性智(宝生如来)を指すのが基本で、髪も五髻(ごけい)があるべき姿だと思われます。

 

在家を象徴する大乗仏教の経典の維摩経(ゆいまきょう)では、智恵の菩薩とされる文殊菩薩が維摩居士(ゆいまこじ)と議論を交わしますが、「維摩の一黙、雷神の如し」の諺のように、この経典の目的が、出家の小乗仏教に対して在家の大乗仏教が教義の上でも負けていない事を示す事だと思われ、文殊菩薩のモデルも舎衛国(しゃえこく)の多羅という集落の在家である梵徳(ぼんとく)なる人物だと言われます。

 

私は文殊菩薩はお釈迦様の十大弟子の一人の阿難陀(アーナンダ)を指すものと思います。

 

「大般涅槃経」の中で臨終の際に、泣き悲しむ阿難陀にお釈迦様が私が亡き後は「自」(自分)を拠り所し、「法」(経)を拠り所としなさいという「自灯明(じとうみょう)法灯明(ほうとうみょう)」という言葉を残されました。

 

悟りの本質は自分自身で会得するしか方法はなく、浄・楽・常・我(じょう・らく・じょう・が)の四顛倒(してんどう)を打破するための修行法である四念住(しねんじゅう)の実践が重要だとされます。

 

不浄観(ふじょうかん)、一切快苦(いっさいかいく)、諸行無常(しょぎょうむじょう)、諸法無我(しょほうむが)の四つの修行法です。

 

阿難陀はお釈迦様が亡くなるときにはまだ悟りを開いていませんでした。

 

しかし、お釈迦様より、「自灯明、法灯明」の言葉をいただき、お釈迦様の亡くなった後に涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の「空」(くう)の世界を悟ました。

 

寂静(じゃくじょう)は平安(へいあん)という意味で、天武天皇のいない平安時代を指すのかもしれません。

 

「法」(経)は「獅子」(悟り)を表しているものと思います。

 

文殊菩薩は大乗仏教の経典の「般若経」を意味しているとも言われます。

 

上座部仏教の「人」だけが無我とする立場に対して、「法」も無我とする「一切皆空」です。

 

「獅子」はお釈迦様そのもので、「愛情」を意味するようです。

 

お釈迦様が亡くなって、100日目に弟子たちが集まって、今後の仏教について話し合われました。

 

経蔵(きょうぞう)=お経の編集を担当したのが獅子の阿難陀で、律蔵(りつぞう)=戒律の編集を担当したのが象の優波離(うばり)になります。

 

その後、仏教は、キリスト教の影響を受けて小乗と大乗に別れ、小乗だけで論蔵(ろんぞう)=哲学・注釈の編集が行われ、摩訶迦葉(まかかしょう)が担当します。

 

摩訶迦葉は贅沢をせず、お釈迦様から貰った僧衣を死ぬまで大切に身に着けていた人物で、「頭陀第一」(ずだだいいち)=「欲に捉われない」と言われました。

 

余談ですが、文殊菩薩と対を成す普賢菩薩(ふげんぼさつ)は象に乗っています。

 

この象は、六牙白象(ろくげのびゃくぞう)と言って黄金の六本の牙を持つ白象で、お釈迦様の母である摩耶夫人(まやふじん)がお釈迦様を懐妊した時にこの白象が胎内に入って来た夢を見たそうです。

 

六本の牙が悟りを得る為に必要な六波羅蜜(ろくはらみつ)という修行(律)を指すのだと言われています。

 

インドでは戦争の時に軍象として「象」を利用していたので、「象」は本来は巨大な「欲望」を意味するようです。

 

密教では「理趣経」(りしゅきょう)など、「欲望」の中でも特に「性欲」に注目しました。

 

永遠の命を持つとされる「鳳凰」(ほうおう)も「鳳」(雄)と「凰」(雌)がいるとされ、男と女が「性欲」によって結びつけられる事で子孫へと命が受け継がれていきます。

 

だから、「欲望」を煩悩として完全に否定するのではなく、中道として「欲望」を肯定する事が密教の本質なのかもしれません。

 

普賢菩薩は、女性も男性も全ての人が平等だとする大乗仏教のもう一つの経典の「法華経」を意味するとも言われます。

 

優波離が山に籠っての修行をしたいと希望した時にお釈迦様が例え話で、「象」が池で水浴びしているのを兎が真似をしようとしても溺れるだけで、人には向き不向きがあるから、お前は日常生活の中で悟りを学びなさいと言い、お釈迦様の言葉通り努力して「持律第一」(じりつだいいち)と呼ばれるまで成長したので、「欲望」を克服したという意味で「象」に乗っているのだと思います。

 

他の弟子が釈迦族の高貴な身分なのに対して優波離はカースト制度の最下層のシュードラ(奴隷)で、バラモン教では絶対に高い地位にはつけない身分でした。

 

しかし、カースト制度における差別をお釈迦様の教団は退けました。

 

「象」はお釈迦様の基本姿勢である「平等」の象徴でもあるようです。

 

女性も男性と同じように「平等」に悟りを開けると法華経に書かれている事から、普賢菩薩のお使いは女性で、十羅刹女(じゅうらせつじょ)と呼ばれる鬼子母神(きしもじん)の娘達です。

 

鬼子母神は道教の神様で、不老不死の西王母(せいおうぼ)の事で、「龙虎」(りゅうこ)=「白虎」(お稲荷さん)を使いとします。

 

鬼子母神はヒンドゥー教ではシヴァ(大黒天)の妃のパールバティで、黒のカーリー、赤のドゥルガーと姿を変えますが、基本は金色に輝く女神です。

 

聖徳太子の夢に出て来た「金人」(きんじん)は秦の始皇帝が中国を統一した後、敵の武器を全て溶かして作った十二金人(じゅうにきんじん)が元々の由来だと思われ、北狄や東夷の夷(い)を表す像だったようです。

 

金色は黄色で、神武天皇の弓の先に止まった「金鵄」(きんし)=「金色のトビ」で登美夜毘売(とびやひめ)の皇極天皇を表すようです。

 

富雄川(とみおがわ)の女神で「黄金の鏡」(銅鏡)を意味するようです。

 

白は銀色で、竜田川(たったがわ)の錦の蛇(宇賀弁財天)となった持統天皇を表すようです。

 

聖徳太子が亡くなってから600年後に聖徳太子伝私記を書いた法隆寺の僧、顕真(けんしん)は聖徳太子の馬であった「黒駒」の飼育係であった調子麿(ちょうしまろ)の子孫を称しますが、私は、聖徳太子という人物像はこの調子麿によって創り上げたものだと私は思います。

 

つまり、「乗り物」が重要で、「多聞天」(クベーラ)もガンガーというガンジス川を神格化した女神の「乗り物」で鰐(象の頭を持つ龍)の神様=金毘羅(こんぴら)さんだとされます。

 

因みにガンガーはパールバティの妹だとされますが、中にはガンガーもパールバティの化身の一つの姿だとする説もあります。

 

パールバティーの黒のカーリーの姿の時には侍女にダーキニーという女神がいて、こちらが荼枳尼天(だきにてん)=お稲荷さんだと言われます。

 

聖徳太子が「黒駒」と一緒に飛鳥の宮(橘寺)から斑鳩の宮(法隆寺)に通った道を「太子道」(たいしみち)と呼びますが、別名を「筋違道」(すじかいみち)とも呼びます。

 

柱と柱の間に斜めに入れて補強する建材を「筋違い」(すじかい)と呼びます。

 

皇極天皇と天武天皇、皇極天皇と蘇我倉山田石川麻呂、天武天皇と推古天皇などを聖徳太子が結びつけることを表しているものと思います。

 

この太子道の中間地点が三宅の原(磯城郡三宅町と田原本町)で、鏡作氏や多氏の拠点で、雷神(三輪の蛇)を捕まえた少子部連螺嬴(ちいさこべのむらじすがる)=少彦名神(すくなひこなのかみ)の伝承が日本書紀、日本霊異記に書かれています。

 

少子部連螺嬴が雷神を捕まえたという意味は、蘇我倉山田石川麻呂が持統天皇の母方(遠智娘)の親として天智天皇(雷神)と同族になった事を指し、亡くなってからも當麻寺(たいまでら)の中将姫(ちゅうじょうひめ)を象徴する藤原氏と蘇我倉山田石川麻呂の子が天武天皇(當麻蹶速)を吸収して天皇家の中心となったという意味だと思います。

 

少子部連螺嬴は童子の守り神で鏡王女(かがみのおおきみ)の春日大社の前身の神様と言えそうです。

 

日本では子は宝として黄色で表されます。

 

豊雛大明神(とよひなだいみょうじん)として鶏の雛(ひよこ)の「黄」(銅鏡)を指し、貴船神社(黄船神社)の玉依姫(たまよりびめ)を意味し、雛人形の由来になります。

 

元々は、遠智娘(おちのいらつめ)の娘の持統天皇を表したようです。

 

しかし、黄色は白色と習合し、お稲荷さん(宇賀弁財天)となり、雛は頭の青い鴨の雛となり、賀茂氏は青色の「葵」(あおい)をシンボルとして、原型が分からなくなってしまいます。

 

雛(ひよこ)が黄色なのは、おそらく、天敵であるカラスが黄色を識別出来ない目の構造からだと思われます。

 

現在はこの特性を利用してカラスに漁られないように黄色のゴミ袋が使用されたりしています。

 

鶏の仲間の孔雀が、極彩色で、目玉模様なのも、カラスが極彩色や、目玉模様を嫌う事から来た進化なのかもしれません。

 

同様に玉虫が極彩色なのもカラスに食べられない為の進化のようです。

 

太子道は法隆寺から寺川(てらかわ)沿いを通りますが、寺川は昔は倉橋川(くらはしがわ)と言い、安倍文殊院(あべもんじゅいん)を建てた安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を指すようです。

 

水源地は多武峰(とうのみね)で、藤原鎌足と天智天皇が蘇我氏を滅ぼす談合をした山です。

 

中将姫の父の藤原豊成(ふじわらとよなり)の母が阿倍御主人(あべのみうし)の外孫で、安倍倉梯麻呂(阿部内麻呂)の子供で、母は不明とされますが、おそらく、元正天皇(げんしょうてんのう)と同じく天武天皇の血を引いているものと私は思います。

 

普賢菩薩は天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)の血を引く元明天皇(げんめいてんのう)、天武天皇の血も加えた元正天皇の二人が意識され、元明天皇の名前の阿閇皇女(あへのひめみこ)が阿部氏の由来だと思います。

 

子供は両親の鎹(かすがい)なので、愛知県春日井市にある白山神社では、「縁結び」「和合」「結び合わせ」のご利益があるとして

 

童子の姿の多い文殊菩薩の話に戻りますが、阿難陀の父の斛飯王(こくぼんのう)がお釈迦様の父の浄飯王(じょうぼんのう)に阿難陀の出生した事を知らせると、大いに喜んだので歓喜(アーナンダ)と名付けられます。

 

阿難陀は、常にお釈迦様の側にいて、誰よりもお釈迦様の説法を多く聞いていた為、「多聞第一」(たもんだいいいち)と称せられ、顔は清らかな満月のようで、目は青い蓮華のように澄んだ目をしていたと言われます。

 

毘沙門天の別名の多聞天は、この文殊菩薩を象徴する阿難陀を意味していると思われます。

 

多聞天(たもんてん)は財宝の神クベーラに、「金比羅」(こんぴら)という字を当て、海の神(住吉の神)として、饒速日命(にぎはやひのみこと)と同一視するようになりました。

 

多聞天の「多くを聞く」という名前は一度に多くの人の話を聞き分けられたとされる聖徳太子の逸話とも和合します。

 

しかし、この阿難陀には堤婆達多(ダイバダッタ)という兄がいて、こちらはお釈迦様の弟子だったのですが、お釈迦様に「五時の戒律」を提案して受け入れられず、分派して新しい教団を作りました。

 

そして、堤婆達多(ダイバダッタ)は摩訶陀国(まがだこく)の王子の阿闍世(あじゃせ)を唆(そそのか)して、父である王や、父が信仰していたお釈迦様を殺すように仕向けたとして、悪逆非道の人物として知られます。

 

そんな悪逆非道な堤婆達多(ダイバダッタ)も、未来には天王如来(てんのうにょらい)として悔い改めると法華経の提婆達多品第十二では書かれています。

 

天王如来とは、日本では牛頭天王(ごずてんのう)を指し、素戔嗚尊と習合した天武天皇の毘沙門天を意味するものと思われます。

 

この般若寺の北側にある奈良豆比古神社(ならつひこじんじゃ)の摂社で祀られる毘沙門天は鳥居の扁額(へんがく)には「毘沙門天王」と書かれ、牛頭天王との類似性を意識させます。

 

大黒天の鳥居の扁額は「福の神」と書かれ、「服の神」の秦氏を連想させます。

 

石瓶神(いしがめしん)は聞きなれない名前ですが、鵤(イカルガ)と対で万葉集で詠まれる比米(シメ)を表す比売神(ひめかみ)の推古天皇かと思われます。

 

芸能の神、天細女命(あめのうずめのみこと)という別名も持ちます。

 

鵤(イカル)は大きな黄色の嘴(くちばし)と舌を使って器用に豆を回して殻を割って食べる鳥で、別名を「豆回し」(まめまわし)とも呼ばれます。

 

鳴き声が「ツキーヒーホシー」(月・日・星)と聞こえる事から三光鳥(さんこうちょう)とも呼ばれますが、三光鳥と呼ばれる尾の長い鳥が別にいて、本来は別の鳥だとされます。

 

鶯(ウグイス)も「ホーホケキョウ」以外に「ツキーヒーホシー」と聞こえる事がある事から三光鳥という別名もあるとされますが、鳴き声をそのように聞くには少し無理があるように思います。

 

天照大神(日)、月読命(月)、素戔嗚尊(星)の三神を統合する目的で、これらの鳥が結び付けられたのかもしれません。

 

法隆寺の北に位置する斑鳩神社(いかるがじんじゃ)のご祭神は菅原道真になっていますが、古くは伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)と呼ばれる神様で天満(てんま)さんと呼ばれていたようです。

 

麒麟(きりん)であり、竜馬(りょうま)であり、天馬(てんま)を意味します。

 

鵤(イカル)に鵤(イカルガ)と「我」(ガ)を加えるのは本来は仏教では「我」(欲望)を無くす「無我」(むが)が悟りを開く道筋だと思われていましたが、空海の齎した密教では「我」を肯定的に捉え、「我」を持ったまま悟りを開ける事を説いたからかもしれません。

 

蘇我氏(そがし)も、おそらく元の名前は菅氏(すがし)だったのだと思われますが、「我」を蘇らせて加えたのだと思います。

 

清水寺(きよみずでら)の「清」(きよ)は「清」(すが)とも読める事から「水」を加えて「清水」(しみず)とし、太陽(火)の鳥の「鳳凰」(ほうおう)を「鴫」(しぎ)や「鴨」(かも)の水鳥に変える必要があったのかもしれません。

 

「鴫」(しぎ)は志貴皇子(しきのみこ)の「志貴」(しき)で、鴨居(かもい)、敷居(しきい)の「敷」(しき)は昔は鴫居(しきい)と「鴫」(しき)の字が使われていたようです。

 

それが菅原道真を祀る綱敷天神(つなしきてんじん)や、大己貴命を祀る玉敷神社(たましきじんじゃ)など、「敷」の字に代わり、敷居は蘇我倉山田石川麻呂を指すようになったようです。

 

漢訳経典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味ですが、この「我」とは多くを聞いた阿難陀を指していると言われます。

 

毘沙門天(ヴィシュヌ)の異名を那羅延天(ならえんてん)と言いますが、「延」(えん)は「長く伸ばす」という意味で、茅(ち)の輪くぐりなど、「円」(えん)の意味もあるようです。

 

「長く伸ばす」というのは、天照大神に供え物として献上する熨斗鮑(のしあわび)が鮑(あわび)を長く伸ばした事を意味し、鮑が天武天皇を表しているようです。

 

鮑について

 

平安時代の延喜(えんぎ)5年に醍醐天皇の命令で藤原時平によって編さんが開始され、延長(えんちょう)5年に完成した「延喜式」(えんぎしき)ですが、朝廷の儀式・作法・事務手続きなどの法令集で、祝詞の仕方や、日本酒や醤油の作り方などの食品に関しても細かく説明がなされている為に、当時の文化を知るのにとても貴重な資料となっています。

 

延喜(えんぎ)は元号ですが、神社仏閣の縁起から来ていて、演技をする芸能の猿楽と結び付きます。

 

共に藤原氏の意志が強く反映される事となります。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)=天武天皇の降臨した高千穂峡(たかちほきょう)のある日向(宮崎)の北部の延岡市(のべおかし)は五ヶ瀬川(ごかせがわ)が流れ、西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡には素戔嗚尊(牛頭天王)を祀る祇園神社(ぎおんじんじゃ)があり、毘沙門天を牛頭天王に吸収する意味があるようです。

 

奈良豆比古神社は猿楽(さるがく)の翁舞(おきなまい)の発祥の神社で、知恵の神、猿田彦大神である藤原鎌足を表すようです。

 

境内にある奈良の天然記念物である巨大な楠(くすのき)は虫を寄せ付けない樟脳(しょうのう)の木で、蚕をシンボルとする秦氏を牽制する意味合いがあったのかもしれません。

 

因みに、ひな祭りで宗像三女神を表す三人官女はお酒を注ぐ酒器を持っていますが、その酒器は「平瓶」(へいじ)、「銚子」(ちょうし)、「堤子」(ひさげ)の三種類になります。

 

「平瓶」(へいじ)は平家物語にも「平氏」(へいし)を表す言葉として出て来ます。

 

京都の平野神社(ひらのじんじゃ)など「皇極天皇」を表しているようです。

 

「銚子」(ちょうし)は聖徳太子の馬である黒駒の飼育係の調子丸(ちょうしまる)で、黒駒は八咫烏(やたがらす)と呼ばれ、「蘇我倉山田石川麻呂」を表しているようです。

 

「堤子」(ひさげ)は「日下」(ひさげ)で、武蔵の強首(こわくび)や、酒吞童子(しゅてんどうし)の「天武天皇」を表しているようです。

 

生駒山と信貴山の間にある信貴スカイラインに乗ると、途中で三間石山(さんげんいしやま)と呼ばれる巨大な岩が三石あり、三石が夫婦という不思議な夫婦岩(めおといわ)になります。

 

皇極天皇、蘇我倉山田石川麻呂、天武天皇の三人を表しているものと思います。

 

この三間石山が住吉三神の由来を記した住吉大社神代記に登場する諍石(いさめのいし・しずめのいし)だろうと言われており、母木里(おものきのさと)と高安国(たかやすのくに)の境に山火事で草木が燃え尽きても残る証としてこの石を置いたと書かれています。

 

母木里の恩智神社(おんぢじんじゃ)の神宮寺(感応院)の十一面観音が別名、母木観音と呼ばれていたと言われるので、蘇我倉山田石川麻呂と、その娘の遠智娘(おちのいらつめ)が持統天皇にとっての母親になるので、この地名が付いたのかもしれません。

 

母木里と高安国は隣接していて、共に大阪府八尾市に当たり、信貴山への大阪からの登り口である信貴山口の少し南側に天照大神高御座神社(あまてらすおおかみたかみくらじんじゃ)と岩戸神社があります。

 

この二つの神社は皇極天皇と天武天皇を表すようです。

 

ご祭神は城山大神(しろやまおおかみ)で不動明王(てんちてんのう)が祀られ、大日如来(大物主命)を表しているようです。

 

信貴山の朝護孫子寺の頂上でも白蛇が祀られ、白龍大神が龍田大社に祀られるなど、天智天皇(志貴皇子)を白で表して皇極天皇を祀っているようです。

 

信貴山は白虎(びゃっこ)のお寺と言われますが、実はお稲荷さんの白狐(びゃっこ)のお寺で、本来は天照大神が持統天皇の市與(いよ)で弁財天、皇極天皇が豊受大神で皇極天皇の台与(とよ)でお稲荷さんを表していたようですが、壬申の乱以降は、天照大神も、豊受大神もどちらも皇極天皇が担当する形となったようです。

 

生駒から阪奈道路で大阪に向かうと大東市中垣内にある州浜紋(すはまもん)を神紋とする須波麻神社(すはまじんじゃ)があります。

 

        州浜紋

 

洲浜紋は河口にできた三角洲など、水辺にできる島形の洲を言い、不老不死の仙人の住む蓬莱山を表していると言われます。

 

「自灯明、法灯明」(じとうみょう、ほうとうみょう)の「灯明」(とうみょう)は上座部仏教(南伝仏教)のパーリ語経典では「洲」(しま)と訳されるそうです。

 

原語である「dipa」(ディーパ)という言葉がどちらの意味も持っていて、大乗仏教(北伝仏教)では「灯明」、上座部仏教(小乗仏教)では「洲」で統一されているようです。

 

州浜紋を家紋に持ち、源頼朝の落胤を祖とする伝承のある小田氏は、州浜紋を源氏の先祖六孫王経基王の「六」の字を紋章化したものと言いますが、観音菩薩の「六」(亀)を輪で囲って「三」(蛇)にする意味があるものと思います。

 

洲波麻神社のご祭神は大己貴主命ですが、大国主命(大己貴命が素戔嗚尊の婿養子になってからの名前)を祀る出雲大社の神紋が亀甲紋と「六」(亀)をあらわしているのも偶然ではないようです。

 

三六菩薩(みろくぼさつ)=三狐神(みけつかみ)の妙見菩薩(お稲荷さん)と大己貴命が弥勒菩薩(みろくぼさつ)=如意輪観音菩薩だというわけです。

 

藤原氏の称徳天皇のお寺でもある西大寺が「玄武」(げんぶ)のお寺と言われますが、これも亀と蛇の幻獣になります。

 

三狐神は弁財天(蛇)をリーダーとする宗像三女神でもあります。

 

お稲荷さんと弁財天が習合して白蛇の宇賀弁財天(うがべんざいてん)とも呼ばれます。

 

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)とは道教の北極星と、北斗七星を神格化した菩薩と言われますが、明治以前は神仏習合で天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と同神とされ、天御中主神と同神とされる豊受大神(お稲荷さん)とも同神になります。

 

妙見菩薩が亀に乗る姿で描かれるのは、亀の背中に乗って竜宮城に行く浦島太郎と同じ意味があるようです。

 

龍宮城のお姫様が乙姫様(おとひめさま)と呼ばれるのは雅楽(ががく)という音楽を日本に最初に伝えたのが推古天皇(すいこてんのう)で、音姫(おとひめ)という意味があるようです。

 

京都の東山区にある清水寺(きよみずでら)の音羽の滝(おとわのたき)は推古天皇の代わりとして宗像三女神が引き継ぐという意味で滝が三つに分かれているようです。

 

あの滝の源泉は持統天皇(弁財天)を意味した鴨川の地下水で、岩(蘇我倉山田石川麻呂)から染み出た石清水であり、音羽の滝の上に祀られる不動明王は持統天皇の父親の天智天皇を表すようです。

 

浦島太郎は藤原氏の前身の卜部氏(うらべし)を意味します。

 

亀は背中に蓬莱山を背負うという言い伝えがあり、山を島(洲)に変えたものが三角州(州浜)のようです。

 

江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣を「お蔭参り」(おかげまいり)と呼びますが、「陰」に草冠を付けた「蔭」の字を使うのは天武天皇を表す為だと思います。

 

「犬のお蔭参り」も、黄色い馬(麒麟)であった天武天皇を黄色い犬(狐)に変える目的で宣伝されたと私は思います。

 

「お蔭」とは、伊勢神宮の神様の「傘」(かさ)の「蔭」(かげ)に守られている=「神のご加護」という意味だと思われますが、「お蔭参り」発祥地の東大阪は生駒山の「蔭」を意味します。

 

六芒星の「ご加護」を、亀の「お蔭」にしたものと思われます。

 

京都の北野天満宮の乾(蔭)の方角に亀石が置かれているように「蔭」は皇極天皇の蔭に隠れる蘇我倉山田石川麻呂を指すようです。

 

京都府の笠置山(かさぎやま)に天武天皇の長男で、壬申の乱で天武天皇に滅ぼされた大友皇子が笠を置いて弥勒菩薩の摩崖仏が出来た伝承がありますが、記紀に書かれる鳥の平群氏(天武天皇)を滅ぼす犬の大伴氏(大伴金村)は、藤原四兄弟によって現実となります。

 

毘沙門天が滅んで妙見菩薩(お稲荷さん)が弥勒菩薩となったようです。

 

文殊菩薩の話に戻りますが、文殊菩薩と言えば、奈良の桜井市にある安倍文殊院(あべもんじゅいん)が有名です。

 

こちらは開祖が阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)で、大化の改新で蘇我倉山田石川麻呂が右大臣だったのに対して左大臣に任命された人物です。

 

阿倍氏(あべし)は物部氏を表す孝元天皇(こうげんてんのう)の皇子の大彦命(おおひこのみこと)を先祖とする皇別氏族で、豊受大神を象徴する大伴氏の氏族だと思われます。

 

阿倍氏(あべし)の子孫と言えば、白狐(お稲荷さん)の子供だという伝承のある安倍晴明(あべのせいめい)が有名ですが、その白狐が葛葉(くずのは)という名前だったり、式神(しきがみ)を使ったりする事から、晴明の母親は九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)と呼ばれる推古天皇の系統の女性だったのではないかと思われます。

 

女真族では、男性のシャーマンを「勃額」(ボーア)と呼び、女性のシャーマンを「薩満」(サマン)と呼びました。

 

秦氏の国であった「薩摩」(さつま)も「薩満」(サマン)から来ているのかもしれません。

 

「薩満」(サマン)の主な仕事は、占いで、亀の甲羅に穴をあけ、そこに、火で熱した金属の棒を当てて、生じた亀裂によって吉凶を占いました。

 

「亀」は、長寿という理由と、水陸両用の不思議さから、神の意思を知ることが出来る神聖な生き物だと信じられていたようです。

 

この「亀」を使った占いを「亀卜(きぼく)」と言いますが、元々は「殷」(いん)で行われていました。

 

「殷」を滅ぼした「周」の人達は、占いによる政治を嫌った為に、あまり行われなくなります。

 

朝鮮半島の高句麗と、百済は、元々、ツングース系の扶余(ふよ)と呼ばれた民族ですが、文化的には「殷の影響をかなり受けているように思えます。

 

中国が全面的に肯定していて、韓国が全面的に否定する、「殷」の箕子(きし)という人物が建国したとする箕子朝鮮(きしちょうせん)と呼ばれる伝説の国があります。

 

箕子(きし)は「殷」の帝辛(紂王)(ちゅうおう)が象牙の「箸」(はし)を作ったと聞き、贅沢をやめるように諫言した人物で、暴君化した帝辛(紂王)により幽閉されます。

 

「殷」を滅ぼした「周」(しゅう)の武王が、幽閉されていた箕子(きし)を招聘して政治について問い、そのあまりの該博さに驚嘆して、箕子(きし)を崇めて家臣とせず、朝鮮に封じたとされます。

 

箕子は「殷」の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また「犯禁八条」を実施して民を教化し箕子朝鮮(きしちょうせん)を建国したというものです。

 

          紀元前194年頃の朝鮮半島の予想図

 

箕子朝鮮が実在したかどうかは分りませんが、実在したとするなら、蘇我氏が、これに当たるように思います。

 

「楚」にしても、「箕子朝鮮」にしても、「殷」が文化の元で、蘇我氏と関係がありそうです。

 

「殷」は、亀卜、甲骨文字、青銅器、お酒、馬車などの文化があり、殷墟からは世界最古の青銅器の「箸」が見つかっています。

 

これも、箸墓古墳が、蘇我氏系の推古天皇の墓だとしたら、「箸」には蘇我氏という意味が籠められていることになります。

 

また、「殷」は、国王の子を「子」と称していて、ここから王子や皇子という言葉が生れ、後世には貴人や賢人の尊称として、孔子、孟子、箕子など、「子」が用いられるようになります。

 

蘇我氏が力を持った飛鳥時代は、蘇我馬子や、小野妹子など、男性に「子」がつく人物が目立ちます。

 

高句麗は、狛(馬)と弓を得意とする高朱蒙(コ・チュモン)が建てた国ですが、高氏が率いる句麗(くり)の国という意味です。

 

百済は、高朱蒙(コ・チュモン)の息子が建てた国で、日本とは古くから同盟を結んでいました。

 

高句麗は、元々、シャーマニズムの国で、「殷」で起こった道教(どうきょう)を信仰する国でしたが、仏教を早くから受け入れ、その影響で百済も仏教の国になっていきます。

 

句麗(くり)の「句」(く)は「狗」(いぬ)で、「麗」(り)は「牡鹿」のことです。

 

麗しい「麗」(り)の「鹿」の上にあるのは「角」を省略した文字で、左右対称に「角」が並び立つ美しさを表します。

 

チンギス・カンの「蒼き狼と白き牝鹿」とは牡と牝が逆になっているのは、鹿がシンボルのツングース系民族が根底にあるということで、「狗」は、「隋(ずい)」と対抗する為に、同盟結んだ突厥(とっけつ)と呼ばれるトルコ系騎馬民族のことだと思われます。

 

高句麗は、石の高い城壁を築いて、鉄の武器を使用し、騎馬隊を組織した軍事国家でした。

 

この「鉄」と「馬」という二つの武器は、ヒッタイト人(鉄)、フルリ人(馬)がルーツで、その末裔が、突厥(とっけつ)です。

 

突厥(とっけつ)は、「隋」が成立するのと同じ時期に東西に分裂し、東突厥は「隋」に臣従しました。

 

高句麗は「隋」に臣従せず、突厥(とっけつ)に密使を送り、「隋」に対抗しようとします。

 

612年、その企てを知った「隋」の煬帝(ようだい)は110万を超える隋軍を出動させ、高句麗に攻め込みますが、結果は隋軍の敗北でした。

 

その後、613年、614年と高句麗遠征を行いますが、全て敗北し、各地で反乱が起こり、煬帝(ようだい)は親衛隊長に殺されて618年に「隋」は滅びます。

 

ここで、日本と、「隋」の関係ですが、聖徳太子は、607年に遣隋使の小野妹子に「日の出づるところ」の国書を持たせて、煬帝(ようだい)に送っています。

 

中国の皇帝と、倭国の王が同格に扱われている文面に煬帝(ようだい)は激怒したと言われます。

 

しかし、怒ったはずの煬帝(ようだい)ですが、翌年には裵世清(はいせいせい)という使者を倭国に派遣して友好関係を続けます。

 

これは、高句麗遠征の準備を進めている「隋」としては、倭国と敵対することは得策ではないと判断した為と思われます。

 

この「日の出づるところ」の国書ですが、聖徳太子の仏教の師で、高句麗の僧である慧慈(えじ)が書いたのではないかと言われています。

 

慧慈(えじ)にとっては、高句麗と、倭国が同盟を結ぶことが悲願だったのかもしれません。

 

「句麗」は「城」を意味する高句麗語の「コル」が語源だとする説もあります。

 

日本では、高句麗から渡来した民族の住んでいた地域には「栗」(くり)の字が当てられたりします。

 

栗の実を包む「棘」(いが)が、周囲に鋭く突き出した「鉄の城」を表しているのかもしれません。

 

京都の宇治茶の中心的産地である宇治田原では天武天皇の由来がある「栗」の伝承が沢山残っていて、橘の祖である栗隅王(くりくまおう)の外側の「棘」(いが)=「伊賀」が天武天皇を表しているのかもしれません。

 

この高句麗が、東漢氏(やまとのあやし)と繋がりがあり、その中の秦氏が隼人と呼ばれたのではないかと思います。

 

「薩摩」(さつま)のことを現在は、「鹿児島」(かごしま)と呼びますが、これは「鹿の児」(子)の島という意味です。

 

「桜島」(さくらじま)を昔は、「鹿児島」と呼んだので、その名前が県名になったと言われています。

 

「桜島」は、何故、桜なのかというと、桜の女神の木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)が祀られていたからだそうです。

 

木花咲耶姫の父親は「大山祇神(おおやまつみのかみ)」で、母親は「鹿屋野比売神」(かやのひめかみ)という鹿の神です。

 

葛城王朝を築いた伽耶国(かやこく)のお姫様で、木花咲耶姫は「鹿の児」ということのようです。

 

桜は花弁の先が割けたサキウラ(割先・咲梢)の意で、麗しく咲く咲麗(サキウラ)がサクラに訛ったものだそうです。

 

伊勢の朝熊神社は、桜の宮と呼ばれ、桜の木を御神体とします。

 

富士山本宮浅間大社の「浅間」は、「朝熊」のことで、麗しく咲く鹿の花です。

 

鹿児(かご)とは、籠(かご)という意味もあるようで、山幸彦(やまさちひこ)が海神(わたつみ)宮に行く為の籠(舟)を作った島ということで籠島(かごしま)なったそうです。

 

麛坂皇子(かごさかのみこ)、箱大明神(はこだいみょうじん)、玉虫厨子(たまむしのずし)、どれも入れ物を表しますが、天武天皇を象徴するようです。

 

浦島太郎が龍宮城(海神宮)に乗っていったのは、「舟」ではなく「亀」ですが、「亀」は「龍」の子供だとされます。

 

豊受大神(お稲荷さん)の元伊勢だと言われる「龍」の籠神社(このじんじゃ)や、天智天皇と天武天皇を祀っていると思われる「鹿」の麓神社(ふもとじんじゃ)は鹿児島の秦氏と同族の葛城氏だという事のようです。

 

京都市左京区にある貴船神社(きふねじんじゃ)と呼ばれる神社があります。

 

本宮には高龗神(たかおかみのかみ)、奥宮には闇龗神(くらおかみのかみ)、そして中宮には磐長姫(いわながひめ)が祀られています。

 

昔は奥宮に祀られている闇龗神(くらおかみのかみ)が本宮に祀られていて、こちらの方が本尊だったようです。

 

実は、龗神(おかみのかみ)は、天照大神のことで、「高」(たか)と、「闇」(くら)との2人に分けられていますが、「高」は市杵嶋比売(イチキシマヒメ)=皇極天皇、「闇」は多岐都比売(タギツヒメ)=推古天皇のことです。

 

本来は多岐都比売(タギツヒメ)だけを祀っていたものを、後から市杵嶋比売(イチキシマヒメ)を加えたようです。

 

だから、多岐都比売(タギツヒメ)だけを単身で祀る神社が、今は無くなっています。

 

磐長姫(いわながひめ)は、多岐都比売(タギツヒメ)の別名ですが、常に木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と一緒に祀られます。

 

貴船神社(きふねじんじゃ)の貴船(きふね)は、水に浮かばない亀舟(きふね)=磐舟(いわふね)という意味と、水に浮かぶ木舟(きふね)という意味の二つの意味があります。

 

亀舟(きふね)は、磐長比売(いわながひめ)のことで、龍宮城の乙姫である弟橘比売(おとたちばなひめ)のことで、「卑弥呼」に当たります。

 

あの世とこの世を結ぶ縁結びの神様で、菊理比売(ククリヒメ)という別名もあります。

 

天香久山(あまのかぐやま)の麓にある天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、「延喜式」神名帳にある十市(といち)郡の坂門神社(さかとじんじゃ)とする説がり、俗に「亀の岩戸」と云われたのが転訛して、「天岩戸」になり、祭神は亀津比売(かめつひめ)だと言われます。

 

天香久山

 

天岩戸隠れは、亀が甲羅の中に隠れることを表していて、それが、厳島神社や、出雲大社の神紋が亀甲紋である理由なのかもしれません。

 

なお、天岩戸神社の玉垣内に真竹が自生し、これを往古より七本竹と呼び、毎年七本ずつ生え変わると伝えられています。

 

木舟(きふね)の方は、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)のことで、美夜受比売(みやずひめ)のことで、「壱与(いよ)」当たります。

 

あの世とこの世を分ける悪縁切りの神様です。

 

宗像三女神には、多岐都比売(タギツヒメ)と、市杵嶋比売(イチキシマヒメ)と、多紀理比売(タギリヒメ)の3人がいます。

 

多紀理比売(タギリヒメ)は、お稲荷さんで、三穂津姫(みほつひめ)とも呼ばれ、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)や、物部氏(敏達天皇)と大伴氏(県犬養美千代)の血を引く橘氏を象徴する神様になります。

 

多岐都比売(タギツヒメ)には、他にも、丹生明神(にうみょうじん)という名前もあり、初代、天照大神で、蘇我氏系の雨乞いの水の神です。

 

               ⓒ Tomomarusan

             代表的な茅の一種のススキ

 

話を戻しますが、「鹿屋野比売神(かやのひめかみ)」は、「草祖草野姫」(くさのおやかやのひめ)とも言い、「鹿屋」(かや)とは、「茅」(かや)のことで、「萱」(かや)とも書かれます。

 

「茅(かや)」は、細長い葉と、茎を地上から立てる草本植物で、チガヤ、スゲ、ススキなどのことです。

 

「稲」や「麦」などの茎は、水を吸ってしまうのに対し、「茅」(かや)の茎は油分があるので水をはじき、耐水性が高く、この特徴から日本では最も重要な屋根材として用いられました。

 

「茅」(かや)用いて葺(ふ)いた屋根を「茅葺屋根」(かやぶきやね)と呼びました。

 

「生命の樹」とされた「ナツメヤシの葉」が屋根の建材として利用されましたが、その代わりのようです。

 

つまり、水を弾く「草」で、「茅(かや)」は厄除けの「草」として「茅の輪」(ちのわ)などが編まれるようになりました。

 

同じような理由で、笠(傘)も、厄除けとして信仰されます。

 

鹿屋野比売(かやのひめ)を祀る神社は少ないのですが、京都府亀岡市にある藤越神社(ふじこしじんじゃ)に祀られています。

 

「藤」が藤原氏のことで、「越」は、秦氏のことで、中国の長江文明の「越」がルーツなのかもしれません。

 

史記によると、「越王勾践の先祖は禹王(うおう)の末裔」だと書かれていて、前334年頃に、「越」が「楚」に滅ぼされ、越都のあった紹興近くには、今も禹(う)を蛇神として祀る廟が残っていると言います。

 

禹王(うおう)は、黄帝の玄孫で、秦王朝(しんおうちょう)以前にあったとされる夏王朝(かおうちょう)の創始者で、黄河の治水にあたり黄河に棲む水神だったと言われている人物です。

 

「禹」は、ウサギという文字ですが、本来、鰐(わに)や竜(りゅう)の象形文字だそうです。

 

伝説では仕事に打ち込みすぎ、身体が半身不随になり、手足はひび・あかぎれだらけになったとされ、荘子(そうじ)には「尭は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」と書かれたりしています。

 

まるで、稲羽の素兎(いなばのしろうさぎ)のような伝説です。

 

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が秦酒公(はとのさけのきみ)に、「禹」という文字が付く禹豆麻佐(うずまさ)の姓を下賜したというのは、秦氏が夏王朝を築いた「禹」の子孫であるということを意味しているのかもしれません。

 

また、夏王朝を滅ぼした殷(いん)や、周(しゅう)の時代、夏(か)の末裔を名乗る「杞(き)の国」が出来ました。

 

取り越し苦労という意味の「杞憂(きゆう)」の故事でも知られる国です。

 

しかし、紀元前445年に「杞」も、また、「楚」によって滅ぼされます。

 

私は、この「杞の国」の末裔が、日本の和歌山県の「紀の国に住みついた渡来人ではないかと思います。

 

百済の文献では、倭国のことを「貴国」と表記しています。

 

「紀の国」(きのくに)は、「紀伊の国」(きいのくに)とも言います。

 

これは、単に言葉を伸ばしているだけではなくて、「伊」に意味があると思います。

 

「伊」という漢字は、杖を持った人の形から出来た漢字で、天下を治める人という意味があるそうです。

 

「伊邪那岐(いざなぎ)」、「伊邪那美(いざなみ)」などにも使われていますし、

 

「伊勢」(いせ)という言葉もそうです。

 

杞の国に住んでいた人達は、「夷」(い)と呼ばれていたそうで、その人達が日本に来て、

 

別の漢字で「伊」(い)と表したのだろうと思います。

 

伊勢神宮の外宮の末社に、伊我理神社(いがりじんじゃ)という神社があります。

 

猪狩神社(いがりじんじゃ)と書かれることもあり、「伊」が、「猪」という漢字になっています。

 

白い紀州犬と秋田犬と雪丸(宗像三女神)、それと黒い黒駒(蘇我倉山田石川麻呂)と甲斐犬(天武天皇)、これらの「犬」が「猪」(推古天皇と)を「狩る」目的で飼われたもので、お稲荷さん(皇極天皇)を指すのかもしれません。

 

空海が高野山で出会った大小の黒犬を従える高野明神や、狩場明神と呼ばれる神様は「鷹」(たか)を表すお稲荷さんの事で、大小の黒犬に案内されて高野山に入り、毘沙門天(天武天皇)の顕教(けんきょう)に対してお稲荷さんの密教(みっきょう)を広めます。

 

縄文時代は、「蛇」(へび)と、「猪」(いのしし)は山の神で、縄文土器に対で描かれたり、土偶で造られたりしています。

 

蛇は、男性器を表し、猪は多産で子だくさんということで女性を表すそうです。

 

縄文時代前期の貝塚から、鹿、猪、猿などの骨が出土し、当時の人達が食用にしていたことが判明していますが、鹿の土偶の出土例はないそうです。

 

ところが、2300年~3000年前の弥生時代になると鹿の土偶が現れ始め、銅鐸の図柄にも描かれるようになります。

 

縄文時代から弥生時代に代わる時に、蛇と猪が鹿に代わっていくように、伊我理神社のご祭神の伊我理比売は、猪(推古天皇と蘇我氏)を狩りとった鹿の女神(皇極天皇)という意味なのかもしれません。

 

猪では、こんな話もあります。

 

崇峻天皇(すしゅんてんのう)という天皇がいました。

 

蘇我氏と物部氏の勢力争いに乗じて即位した天皇です。

 

聖徳太子の父の用明天皇(ようめいてんのう)が亡くなったあと、誰を次の天皇にするか、もめていました。

 

最有力候補は、物部が推していた穴穂部皇子(あなほべおうじ)でしたが、蘇我の兵に殺害されてしまいます。

 

額田部皇女(推古天皇)、聖徳太子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)らが蘇我側について、物部氏と蘇我氏の対立は深まりました。

 

そして、聖徳太子の兵が、物部守屋を討って、蘇我氏の勝利となり、崇峻天皇(すしゅんてんのう)が誕生します。

 

祟峻天皇は、蘇我勢力に支援されて天皇になったものの、蘇我馬子が実権を握って大きな顔をされることが嫌になっていたようです。

 

崇峻天皇5年10月4日、天皇に猪を奉る者がありました。

 

すると天皇は猪の首を見て、蘇我馬子に当てつける様に「この猪の首を落とすように憎い奴の首を落としたいものだ」と言い、これを聞いた蘇我馬子は、蘇我に忠実な東漢(やまとのあや)一族の直駒(あたいこま)という者を刺客として崇峻宮に送り込み、崇峻天皇5年(592)11月3日、崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺しました。

 

臣下により天皇が殺害されたのは、過去にも例がなく、しかも、記録にこれだけ暗殺とはっきりと残っているのも、珍しい事件です。

 

蘇我氏を悪役とする狙いがあったものと思われます。

 

崇峻天皇亡き後は、額田部皇女(推古天皇)が女帝として即位し、聖徳太子を摂政とし、馬子を大臣として蘇我氏の全盛の時代を迎えたかに見えましたが、蘇我入鹿という一人人物によって、蘇我氏は滅亡の道を辿ります。

 

古事記では、日本武尊(ヤマトタケル)が草薙の剣を持たずに出掛け、「伊吹山」(いぶきやま)の山中で、白い大きな「猪」に出会い、それが山の神だと知らずに、無視をした為に祟りにあって病気になって死んでしまうという話が書かれています。

 

この「伊吹山」も、「猪吹山」という意味で、鼻息の荒い「猪」を表します。

 

また、風の神の素戔嗚尊も、猪の勢い(伊勢)のイメージと重なります。

 

風の強い伊勢は、素戔嗚尊信仰の強い土地で、伊勢の人々は1年中注連縄を飾り、「蘇民将来の子孫」と書いた札を付けています。

 

この蘇民将来とは『備後風土記』に登場する人物で素戔嗚尊のことだと言われます。

 

天照大神と、月読命は、イザナギの目(まな)から生れ、対等の印象を受けますが、素戔嗚尊はイザナギの鼻から生れたとされ、一人だけ毛色の違う印象を受けます。

 

鼻息は風を表しているのかもしれません。

 

江戸時代、京の嶋原や大坂の新町の遊郭において、遊女の格付けに、「松」「竹」「梅」が使われました。

 

松は太夫(たゆう)、梅は天神、竹は囲(かこい、鹿恋)とされました。

 

囲いは、「竹」に囲われた「井」(猪)を表しているというわけです。

 

天武天皇に囲まれた秦氏を意味するようです。

 

「籠」(かご)=「六芒星」には、桑の木や黒漆(蘇我倉山田石川麻呂)の六角厨子(天武天皇)など、元は観音菩薩(推古天皇)を入れる「入れ物」という意味があるようで、「契約の箱」に入った「マナの壺」を意味します。

 

ここから少し西洋での「猪」について考えてみようと思います。

 

「猪」は、ケルト人からも信仰の対象とされました。

 

ケルト人とは月や鹿などをを神聖視し、森の妖精や魔法を信じる民族で、キリスト教の布教に伴って魔女狩りの対象となった人々です。

 

前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民をブリトン人と言います。

 

5世紀末に、サクソン人を打ち破った伝説のブリトン人の王に、アーサー王がいます。

 

アーサー王の伝説では、長年、赤い竜と、白い竜が争っていましたが、コーンウェル地方に巨大な「猪」が現われて、白い竜を踏み潰したとされます。

 

赤い竜とは、ブリトン人のことで、白い竜とはアングロ人やサクソン人などの白人を指し、巨大な「猪」とは、アーサー王のことだ言われます。

 

          コリントスの黒絵式壺絵 ルーヴル美術館

 

また、ギリシャ神話では、戦争の神アレースが、アフロディティーが気を寄せていたフェニキアの皇子アドーニスに嫉妬して、「猪」に変身して、アドーニスを殺してしまうという話があります。

 

フェニキアとは不死の鳥の「フェニックス」を信仰するフェニキア人の国で、「鳳凰」を信仰した秦氏と共通点があります。

 

アドーニスとは、元々はフェニキアの植物神で、ギリシア語で、セム語のアドナイAdonai「主」に相当し、旧約聖書の唯一神のアドナイ(ヤハウェ)だとわれます。

 

アドーニスは、聖処女ミュッラーの息子で、これが聖母マリアとイエス・キリストの関係に当たります。

 

アドーニスは、エルサレムでは牛の姿をした牧羊神タンムーズと呼ばれ、シュメールではドゥムジと呼ばれました。

 

古代バビロニアで、四つの目と四つの耳を持ち、八光の星がシンボルマークの太陽の牛と称されたマルドゥクという神様がこれらの神様のルーツになるのかもしれません。

 

元々はアッカド人を征服したアムル人の信仰した神様で、アッカド人の信仰したムシュフシュと呼ばれる「龍」を乗り物とします。

 

ケルト民族の赤い竜や、百済の信仰した龍の神様と同じ「角」のルーツを持ち、旧約聖書のイサクの生贄の代わりに犠牲となる「角」のある動物の「羊」を意味します。

 

「神の子羊」と自らを呼んだイエス・キリストも、アドーニスと共通のルーツを感じさせます。

 

 

このアドーニスと、アフロディティーの神話は、エジプト神話の植物神オシリスを、砂嵐の神であるセトが、「猪」に化けて殺してしまうという話の構図と同じです。

 

アドーニスなどの神様に共通するのは、冥府の神でもあり、死と再生の神だという点です。

 

日本では「猪」は蘇我氏や推古天皇のシンボルですが、京都御所の西側にある護王神社(ごおうじんじゃ)は弓削道鏡(ゆげのどうきょう)から天皇家を救った和気清麻呂(わけのきよまろ)が300頭の「猪」に助けられた話に因み、狛犬の代わりに狛猪(こまいのしし)が置かれ、「猪」の神社として知られます。

 

西に祀られる理由は、阿弥陀如来(皇極天皇)の極楽浄土を表しているからだと思われます。

 

護王神社には和気清麻呂と、その姉の和気広虫(わけのひろむし)、それと藤原式家(ふじわらしきけ)の祖である藤原百川(ふじわらももかわ)などが祀られています。

 

藤原式家は西を意味し、推古天皇の一族の血を引く藤原氏の家系だと思われます。

 

安倍晴明(あべのせいめい)が「式神」(しきがみ)=「鬼」を使い、五芒星(ごぼうせい)をシンボルとするのは、五芒星が虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を表す金星(アフロディーテ)のシンボルであり、イエス・キリストの血を受け取った「聖杯」(ハート)を意味するマグダラのマリアのシンボルだからかもしれません。

 

観音菩薩の持ち物である「水瓶」も「聖杯」を意味するものと思われます。

 

私は推古天皇がイエス・キリストの血を引いたマグダラのマリアの子サラの子孫で、藤原氏を通して日本人の多くにその血が流れ込んでいるのではないかと思います。

 

つまり、日本人は鳳凰(イエス・キリスト)の子孫というわけです。

 

日本ではハートは「猪目」(いなめ)=「猪女」(いなめ)と呼び、推古天皇を象徴します。

 

ハートは「藤の花」の形であり、天智天皇の娘である持統天皇を祀る上賀茂神社の神紋の「青龍」の「青」を表す「葵の葉」の形になります。

 

                     ⓒ Greudin

         カリュドーンの猪狩りを表した古代ローマの浮彫 アシュモレアン博物館

 

「猪」の話しに戻りますが、別のギリシャ神話では、カリュドーン王のオイネウスという人物が、アルテミスに生贄を捧げなかったことにアルテミスが怒って、巨大な「猪」を野に放ち、それが暴れまくって、勇者達が集まって、「猪」退治をするという「カリュドーンの猪」の話があります。

 

「猪」は三日月型の牙を持つことから月の聖獣とされます。

 

ギリシャ神話のアテネ、アフロディティー、アルテミスは、シュメール神話のイシュタルと呼ばれる豊穣の女神をルーツにしています。

 

インドのヒンドゥー教のサラスバティー、ラクシュミー、パールバティーの三神で、市杵島姫(いちきしまひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、田心姫(たごりひめ)の宗像三女神と同じ関係になります。

 

そして、この女神と「猪」の関係は、日本神話の豊穣神の櫛稲田姫と、猪の素戔嗚尊の関係と同じだということです。

 

ギリシャや、「猪」の話は、これぐらいにして、次は中国と日本の関係を見てみたいと思います。

 

中国に、「秦(しん)」というがありました。

 

「楚」のライバルの国で、「秦」は「白虎」をシンボルにしていて、「楚」は「朱雀」をシンボルにしていました。

 

「秦」の始皇帝が「楚」を征服して、中国全土を統一します。

 

「楚」の人々は「秦」とは文化が違っていたので、征服された後も、「秦」に従おうとはせず逆らい続け、「秦」も手を焼いていたそうです。

 

そして、「秦」の始皇帝が亡くなった後、「楚」の項羽(こうう)という人物が兵を挙げ、ついに「秦」を倒します。

 

劉邦(りゅうほう)の率いる「漢」(かん)は弱い国で、何度も「楚」と戦いますが。いつも負けていました。

 

ただ、「楚」の項羽は、天才であった為に、人を褒めることがなく、次第に有能な部下が「漢」に寝返って、項羽の陣地の四方から楚の国の歌声が聞こえ、四面楚歌(しめんそか)ということわざが出来ます。

 

こうして、「漢」は、「楚」に一度だけ勝利することで、天下は「漢」のものになります。

 

「漢」が、「楚」に勝てたのは、張良(ちょうりょう)や、韓信(かんしん)といった有能な部下が沢山いたからなんですが、天下を取った後に、劉邦の妻の呂夫人(りょふじん)という人物が皇太后(こうたいごう)になって、部下たちを粛清していき、自分の天下を揺るぎないものにしました。

 

部下を利用するだけ利用して、いらなくなったら消してしまった呂夫人の子孫が中国の漢民族のルーツになります。

 

則天武后(そくてんぶこう)や呂后(りょこう)、西太后(せいたいこう)のような残虐な女帝が日本で登場しない理由は、天皇に嫁ぐ後宮の女性が藤原氏系の女性に限られるようになり、天皇家が守られるシステムが生まれた為です。

 

つまり、藤原氏がなかったら今の皇室もなくなっていたかもしれません。

 

中国が誇る「万里の長城」も漢民族が建てたものではなく、「秦氏」の「秦」が建てたもので、そういった意味で、中国という国の基本を造ったのも、現在の中国人ではなく日本人だという事です。

 

日本が中国大陸から文化を輸入していた唐(とう)や隋(ずい)の時代も、漢民族の王朝ではなく、鮮卑系(せんぴけい)の騎馬民族の王朝であったという事も考える必要があります。

 

話が、いろいろと飛びますが、「賀」(か)という漢字も、「秦氏」と係わりが深い漢字です。

 

夏王朝の「夏」(か)を表していて、秦氏の子孫である「賀茂氏」の文字にも使われています。

 

滋賀県犬上郡多賀町にある多賀大社(たがたいしゃ)という神社があります。

 

滋賀県は、近江(淡海)と呼ばれ、朝鮮半島の渡来と係わりの深い土地でした。

 

660年に、新羅は唐と連合して百済を滅ぼし、続いて668年に高句麗を滅ぼしました。

 

韓国ドラマの「チュモン」では、朝鮮人のルーツが高句麗だとされますが、それは間違いで、本当は唐と連合した新羅がルーツになります。

 

紀元前2世紀から4世紀にかけて高句麗と同盟を組んでいる「馬韓」(ばかん)という国があって、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦の遺民を、馬韓人はその東の地を割いて、彼らに与え住まわせ辰韓人(しんかんじん)と名づけたと「後漢書」の辰韓伝や、「三国志」魏書辰韓伝という書物に書かれています。

 

この「馬韓」(ばかん)が後の「百済」(くだら)であり、「辰韓」(しんかん)が「新羅」(しらぎ)になったようです。

 

高句麗の帰化人が一番多かったのは日本で、その次に多いのが渤海や、遼といったモンゴル系の騎馬民族で、ツングース系の民族の国などです。

 

天智天皇が都を大津と定め、琵琶湖周辺に百済と高句麗の遺民を住まわせます。

 

その数は、665年に百済の移民400余人、669年には700余人と言われます。

 

「賀」(夏王朝)の末裔が多くいた土地で、「多賀」です。

 

多賀神社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀っていて、この神様は、たくさんの神様の生みの親です。

 

カエルの子供(おたまじゃくし)の語源となった「お多賀杓子」をお守りとしたりするのは多産を象徴しています。

 

「多賀」(たか)は、「高」(たか)のことで、「越」(こし)や「高志」(こし)と同じ「禹」と共通点があります。

 

「多賀」は、鹿児(かご)の親で、「鹿県」(しかけん)でしたが、「志賀」や、「滋賀」の字を当てたようです。

 

「賀」の話は、これぐらいにして日本に最初に渡来した秦氏について考えてみたいと思います。

 

大和の富雄には、長髄彦(ながすねひこ)という豪族が住んでいて、手足が長くアイヌ人とは違った容貌をしていて弓を使う民族でした。

 

秦氏の先祖も、弓月君(ゆづきのきみ)と呼ばれる弓を得意とする渡来人で、共通する点があります。

 

饒速日命は、長髄彦(ながすねひこ)の妹の登美夜比売(トミヤヒメ)を妃にもらい、同族になり、仲良く暮らしていたのですが、後から渡来した神武天皇の集団に襲われて降参し、長髄彦(ながすねひこ)を倒して、神武天皇の家来となります。

 

神武天皇(じんむてんのう)が退治した手足の長い「土蜘蛛(つちぐも)」というのが、長髄彦(ながすねひこ)ことなのかもしれません。

 

三輪とは、弥羽(みわ)という意味で、天照大神の弓矢を象徴する地名なのかもしれません。

 

古代の日本に弓を製作する弓削氏(ゆげし)という氏族が河内にいました。

 

大伴氏と同族の佐伯氏(さえきし)が物部氏に嫁いで弓削氏が誕生したのではないかと思います。

 

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)では、物部尾輿(もののべおこし)が弓削連の祖である倭古連の女子、阿佐比売(アサヒメ)と、香波流比売(カハルヒメ)の姉妹を妻とし、その子供の物部守屋(もののべもりや)は、弓削大連と名乗ったとあります。

 

阿佐比売(アサヒメ)は、朝日の「太陽」を表し、麻(あさ)のことだと思います。

 

香波流比売(カハルヒメ)は、登美夜比売(トミヤヒメ)と同一人物で、「夜に登る美しい姫」という名の通り、「月」を表しているのだと思います。

 

神道では、麻は神聖な植物とされ、穢れを祓う紙垂(しで)は、古くは麻の枝葉や麻布であり、神職がお祓いに使う大麻(おおぬさ)は、麻の糸で出来ています。

 

当時、高級素材だった絹以外の繊維は、ほとんどが麻だったようです。

 

「卑弥呼」が用いた鬼道とは、麻薬成分の多い大麻(たいま)を使用した祭祀だったのかもしれません。

 

魏志倭人伝や、三国志などにも大麻に関する記述があり、シルクロードを通じて日本に入って来た可能性が高いと思います。

 

香波流比売(カハルヒメ)は、剣の神様だとされる豊前国(ぶぜんのくに)の香春神社(かわらじんじゃ)の巫女をしていたと言われます。

 

香春(かわら)は鹿春(かはら)とも書かれますが、カバラを意味する瓦(かわら)の当て字だと思われます。

 

瓦(かわら)は屋根に使用される建築材料ですが、唐の時代に日本にもたらされたもので、瓦の魔除けとして使用される鬼瓦(おにがわら)のルーツはシリアのパルミラ遺跡のメデューサの顔の像にあるとされます。

 

パルミラとはギリシャ語でナツメヤシを意味するパルマから来ている言葉で、ナツメヤシは生命の樹と言われ、ユダヤ教のカバラのシンボルであり、不老不死の鳳凰の秦氏(マナセ族)を表します。

 

パルミラでは太陽神マラクベルと月神アグリボルの二神を従える最高神バアルを祀るベル神殿があります。

 

バアルは角がある雷雨の神様で日本の素戔嗚尊に当たるようです。

 

               神功皇后の朝鮮遠征 (1880年 月岡芳年)

 

香春神社のご祭神は、辛国息長大姫大目命(からくにおきながおおひめおおのみこと)と言われ、豊前国風土記によると、新羅の国から来た神様とされ、息長(おきなが)という名前から、気長足姫(おきながたらしひめ)と呼ばれた神功皇后(じんぐうこうごう)との関係が疑われている神様です。

 

神功皇后は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の子孫とされ、角がある鬼瓦(おにがわら)の鬼(秦氏)の頭領を表しているのかもしれません。

 

素戔嗚尊(バアル神)の後継者の大国主命(シヴァ神)と共に牛頭天王として秦氏を束ねる意味があるのだと思います。

 

香春神社の神紋は、丸に違い鷹の羽紋だとされ、弓をシンボルにする秦氏に多い家紋です。

 

鷹は豊受大神であるお稲荷さんのシンボルで、神功皇后を象徴する鳶(とび)よりも強い猛禽類になりますが、八幡神の中心人物である応神天皇が本来は天武天皇を表していたように、元々は天武天皇を表していたものだと思います。

 

鷹(たか)は高(たか)であり、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)を指し、天武天皇の「竹」を意味します。

 

生駒山系の最南端である高尾山の高尾(たかお)は高雄(たかお)とも書かれますが、天武天皇の子孫を表す鷹の尾(たかのお)を意味し、阿弥陀如来(皇極天皇)を信仰する浄土教の法善寺(ほうぜんじ)の管轄であり、和気氏(わけし)の前身はおそらく藤野氏(ふじのし)で、天武天皇(狭穂彦)の血を引く藤原氏の氏族だと思われます。

 

それを、お稲荷さんを表す垂仁天皇の系統に組み込んだのが和気氏だと思われます。

 

延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座ですが、その半分にあたる三座が香春神社にあり、残りの三座はすべて宇佐神宮(うさじんぐう)内にあります。

 

宇佐神宮(うさじんぐう)は、神功皇后や、応神天皇、そして宗像三女神や、比売神をご祭神とし、宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)とも呼ばれます。

 

香波流比売(カハルヒメ)は、宇佐八幡宮とも関係があると思われます。

 

奈良時代の神護景雲3年(769年)に宇佐八幡宮より、光明皇后の娘の称徳天皇(孝謙天皇)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、弓削氏の出自である弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった宇佐八幡宮神託事件と呼ばれる事件があります。

 

ここでも、弓削氏と宇佐八幡宮の関係が深いことが分ります。

 

おそらく、弓削氏は秦氏の血を引き、香波流比売が、「壱与(いよ)」なのかもしれません。

 

平安時代中期の延喜式神名帳によると、当時「神宮」の称号で呼ばれたのは、伊勢、鹿島、香取の三社のみだったそうです。

 

香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市にある神社でご祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で、饒速日命の剣の神様です。

 

鹿島神宮(かしまじんぐう)は、茨城県鹿嶋市にある神社で、ご祭神は建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)で、藤原氏の武神だと言われます。

 

境内には神の使いとして30数頭の鹿が飼われているそうです。

 

鹿園の説明書き等によると、鹿の神である天迦久神(アメノカクノカミ)が天照大神の命令を建御雷之男神の所へ伝えにきたことに由来しているそうです。

 

この天迦久神(アメノカクノカミ)とは、香波流比売(カハルヒメ)の別名で、春日大社(かすたいしゃ)に祀られる比売神(ヒメカミ)が、本来の姿なのかもしれません。

 

敏達天皇(びだつてんのう)と、春日仲君(かすがのなかつきみ)の娘の春日老女子(かすがのおみなご)との子に「難波皇子」と、「春日皇子」という皇子がいました。

 

「難波皇子」の子の栗隈王(くりくまのおおきみ)が橘氏の祖となります。

 

母は不詳とされますが、おそらく蘇我氏系の人物だと思われます。

 

「春日皇子」の方は、もちろん春日氏なんですが、そのルーツは和珥氏(わにし)一族の一部が春日に移住し、その地名を姓として名乗ったのが始まりと言われます。

 

和珥氏(わにし)は饒速日命(阿智王)が漢字と儒教の博士として百済経由で渡来させた王仁吉師(わにきし)の末裔だとされ、そのルーツは、高句麗に滅ぼされた楽浪郡(らくろうぐん)の漢人系の学者ではないかと言われています。

 

続日本紀によると、漢の皇帝の末裔と桓武天皇(かんむてんのう)に奏上したという記述があり、漢高帝の子孫「鸞」なる人物の子孫の「王狗」が百済に渡来し、その孫の「王仁」が饒速日命(阿智王)の仲介で、渡来して文氏、武生氏らの祖先となったそうです。

 

藤原氏の氏神を祀る春日大社(かすがたいしゃ)は、藤原不比等(ふじわらふひと)の母親である鏡王女(かがみのおおきみ)が信仰の対象になりますが、境内摂社の榎本神社(えのもとじんじゃ)が本体であり、巨勢姫大神(こせひめおおかみ)という蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)が元々のご祭神のようです。

 

春日大社は子孫繁栄の子授けの神社で、大国主命の使いとされる鼠(ねずみ)の神社と言えます。

 

干支で一番の「子」(ね)は八咫烏(やたがらす)の大国主命の子供たちを意味するようです。

 

桃の節句、「雛祭り」(ひなまつり)のお雛様の段飾りの時に飾る「右近の桜、左近の橘」とは、宗像三女神(内宮)の「桜」と、豊受大神(外宮)の「橘」という意味があるようです。

 

下鴨神社で行われる「流し雛」(ながしびな)も、火の鳥である鳳凰(ほうおう)が水に流される鴨(かも)の雛に変わった事を暗示しているように私は思います。

 

下鴨神社の摂社の河合神社の鏡はメデューサの姿を映したアイギスの盾であり、天照大神の姿を映した八咫鏡(やたのかがみ)を意味するのかもしれません。

 

鹿はその鏡(月)の象徴で、春日大社の使いというわけです。

 

       月の女神アルテミスの像