我が国の初代天皇に神武天皇(じんむてんのう)と呼ばれる天皇がいます。

 

それから、第10代天皇に崇神天皇(すじんてんのう)と呼ばれる天皇がいます。

 

二人は共に、「はつくにしらすすめらみこと」と呼ばれ、初めて国を治めた天皇という名前で呼ばれます。

 

初めて国を治めた天皇が、何故、二人も存在するのか?

 

それは、前者が蘇我氏の天皇を表し、後者が物部氏の天皇を表し、両者を結びつける意図があったようです。

 

また、この二人の天皇の間には、第2代天皇の綏靖天皇(すいぜいてんのう)から、第9代天皇の開化天皇(かいかてんのう)までの、実存性を疑われる8人の天皇がいて、欠史八代(けっしはちだい)とも呼ばれます。

 

天皇家の歴史を長く見せる為に架空の天皇が創作され系図に組み込まれたのではないかと考える学者もいます。

 

この8人は、おそらく、蘇我氏から物部氏へと政権が移った大化の改新に功績のあった8氏族で、神話の世界では天岩戸を開けた5氏族と、天照大神の血を引く3氏族を象徴するのだと思われます。

 

天照大神の3氏族は、第3代天皇の安寧天皇(あんねいてんのう)、第6代天皇の孝安天皇(こうあんてんのう)、第9代天皇の開化天皇(かいかてんのう)だと思われます。

 

孝安天皇は、宣化天皇(せんかてんのう)と同じく、推古天皇を象徴する天皇のようです。

 

第2代天皇の綏靖天皇(すいぜいてんのう)は神渟名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)の事で、物部氏を象徴する天智天皇に当たります。

 

第3代天皇の安寧天皇(あんねいてんのう)は、臆病 で恥を晒した神八井耳命(かむやいみみのみこと)で、蘇我倉山田石川麻呂に当たり、私の推測ですが、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)や、饒速日命(にぎはやひのみこと)の父の 天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の弟神とされる天穂日命(あめのほひのみこと)と同一人物で、神武天皇(蘇我氏)と、崇神天皇(物部氏)を繋ぐ役割を果たした人物だと思います。

 

私は蘇我倉山田石川麻呂は、本当は蘇我氏ではなく檜前氏(ひのくまし)を祖とする秦氏を象徴する人物だったのではないかと思います。

 

野見宿禰(のみのすくね)という蚤(のみ)を象徴する少彦名神(すくなひこなのかみ)という神様になり、素戔嗚尊(蘇我氏)の功績を物部氏の大物主命の功績に吸収させる間(狭井)の役割です。

 

天智天皇は、蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)を妃に貰い、持統天皇(じとうてんのう)を産ませ、物部氏と蘇我氏(本当は秦氏)を結びつけます。

 

神武天皇が大物主命(物部氏)の娘の五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を正妃に貰い、蘇我氏と物部氏が結びついた神話と立場が違うだけで中身はよく似ています。

 

そして、蘇我倉山田石川麻呂は謀反の疑いを掛けられ殺されます。

 

「安寧」(あんねい)には、「あの世」という意味が含まれます。

 

「安」(やす)という字は「年寄りっ子は三文安い」という「安物」(やすもの)の意味もあります。

 

「年寄りに育てられた子は甘やかされて普通の子より劣った子になる」という「劣る」意味があります。

 

三途の川の渡り賃が「六文」(ろくもん)だと言われているので、「三文」(さんもん)だと、「三文安く」なるわけです。

 

秦氏に使用される事の多い「安」(やす)という言葉に、後から悪い意味を付け加えたものと思われます。

 

「野洲」(やす)、「八洲」(やす)など、土師氏を象徴する「蜂」(はち)が作った「蜂の巣」の形は六角形で「六」を象徴します。

 

「六」は、亀甲紋の「六」を表し、東大寺を中心に「南都六宗」(なんとろくしゅう)と呼ばれる仏教を日本に伝えた推古天皇になります。

 

推古天皇を象徴する第六代天皇の孝安天皇(こうあんてんのう)の「孝安」(こうあん)は「孝が安らぐ」という意味で、「孝」(こう)は年寄りを大切にするという普通の意味以外に、蘇我氏が分けられた「公」(こう)を指すのだと思われます。

 

「ムカデ」とよく似た「ヤスデ」という生き物がいます。

 

「安手」(やすで)という意味で、「千足」(やすで)とも書かれます。

 

「百足」(ムカデ)に比べて足の数は多いのですが、「毒」がなくて安心という意味です。

 

「百足」(ムカデ)は「向手」(むかで)という意味で、日向(ひゅうが)から出発した蘇我氏を象徴する神武天皇を表し、「日に向かう」、「太陽に歯向かう」生き物という意味になります。

 

「歯」、「刃」、「葉」、「波」は、みんな秦氏を象徴する言葉です。

 

「百足」(むかで)は「呉公」(むかで)とも書きます。

 

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の時代に「呉」(宋)から手工業者の「漢織」(あやはとり)・「呉織」(くれはとり)を招いたとされ、「呉公」は「呉織」(くれはとり)で、絹の機織り技術を日本に伝えた秦氏を象徴し、その王族という意味かもしれません。

 

漢織(あやはとり)の方は、漢氏を象徴する物部氏だと思われます。

 

「百足」(ムカデ)は、推古天皇を表し、「千足」(ヤスデ)は、土師氏を表すというわけです。

 

神武天皇が即位したのは、紀元前660年だと言われ、その時代は、ちょうど、弥生時代(やよいじだい)が始まる時代と重なります。

 

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)による邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が活躍した時代は、日本の弥生時代から古墳時代に掛かる時代に当たると言われています。

 

ただ、今の学界では実年代や実在性が不確実だと言われているので卑弥呼が誰であったのかは謎のようです。

 

第25代天皇の武烈天皇(ぶれつてんのう)で一度、皇室は途絶えていて、第26代天皇の継体天皇(けいたいてんのう)からが正しい歴史で、神武天皇の即位が紀元前660年というのは、デタラメだと主張する学者もいるようです。

 

真実ではないとしても、神話として、何故、弥生時代の始まりを神武天皇の即位に選んだのかという点を考えたいと思います。

 

弥生時代は、焼畑稲作が終わり、水田稲作が始まった時代で、多くの渡来人が日本に来た時代でもあります。

 

その多くの渡来人の中に、紀元前219年頃から「不老不死の実」を求めて徐福(じょふく)という人物が秦の始皇帝から遣わされてやって来たとも言われ、神武天皇とは、この徐福ではないかという説も存在します。

 

弥生時代の「弥生」(やよい)は、1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町の貝塚から発見された土器が、縄文時代の土器とは異なることから、地名の名を取って弥生式土器と呼び、そこから弥生時代と呼ばれるようになったそうです。

 

この地名の由来は、この場所に江戸時代は水戸藩の中屋敷が建っていて、そこに徳川斉昭(とくがわなりあき)の三月(弥生)を詠んだ歌碑が建っていたことに因むそうです。

 

「草」や「木」が生い茂る事を「弥生」(やおい)と言い、三月を表す「弥生」(やよい)には「蚕月」(さんげつ)や、「桃月」(とうづき)、そして「花月」(かげつ)という別名もあります。

 

欠史八代の最後を飾る第9代天皇の開化天皇(かいかてんのう)は花が開く「開花」(かいか)という意味で、「橘」、「菊」、「桜」の三つの花を象徴するようです。

 

「菊」は蘇我氏のシンボルの「桃」の代わりの花だと考えられ、皇室の象徴である16弁の菊の花は蘇我倉山田石川麻呂を神格化した第16代天皇の仁徳天皇(にんとくてんのう)を意味するものと思われます。

 

「色は匂えど 散りぬるを」の「色」(いろ)=「16」(いろ)であり、素戔嗚尊が生まれた「鼻」(はな)=「花」(はな)を意味するようです。

 

華道(かどう)の元祖とされる池坊(いけのぼう)は聖徳太子の部下であった小野妹子(おののいもこ)を祖としますが、小野氏は和爾氏、春日氏と同じく第5代天皇の孝昭天皇(こうしょうてんのう)を祖とする氏族で、諏訪大社(すわたいしゃ)の神紋と同じ「梶の葉」(かじのは)を家紋とする氏族が多い事から、私は蘇我倉山田石川麻呂に龍田明神(たつたみょうじん)のモデルである天武天皇の血を引く女性を嫁がせた子孫ではないかと思います。

 

秦河勝(はたのかわかつ)が「秦氏」を表しているのに対して、小野妹子は「蘇我氏」を表しているものと思われます。

 

また、聖徳太子の弟である来目皇子(くめのみこ)は推古天皇の事であり、「九」を表す九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)であり、初代の神武天皇から第9代の開化天皇(かいかてんのう)までの9代を表しているものと思われます。

 

縄文時代の女王 卑弥呼(ひみこ)に当たります。

 

仏教の世界では悟りの段階を大きく分けると九段階あるとされ、悟りを開くと「解脱」(げだつ)して桁が変わり「十」になるわけです。

 

つまり、第10代天皇の崇神天皇(すじんてんのう)は「解脱」を表していて、推古天皇を「解脱」出来ていない人物として神武天皇(じんむてんのう)が作られた可能性もあるかも知れません。

 

推古天皇は滅ぼされた「蘇我氏」の血をひく天皇とされますが、おそらく、蘇我倉山田石川麻呂と同じく「秦氏」の血をひく天皇だったのではないかと思います。

 

神武天皇とは秦の始皇帝が遣わした徐福(じょふく)であり、「秦氏」は中心を表す「秦」(しん)であり、隅(すみ)や端(はし)や傍(はた)ではなかったものと思われます。

 

しかし、大化の改新(たいかのかいしん)以降は「物部氏」にその地位を譲り、隅っこが良い「住吉」(すみよし)になり、「物部氏」と「蘇我氏」を結び付ける「橋」(はし)となります。

 

詳しくはこちら (弥勒菩薩 やっしーの休憩室)

 

「弥」(や)は弓矢の「矢」(や)であり、第十五代天皇の応神天皇(おうじんてんのう)を象徴する八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の弓矢であり、「蘇我氏」を「和邇氏」(わにし)に吸収させて、「春日氏」(かすがし)が生まれた事を象徴します。

 

皇極天皇(こうぎょくてんのう)を神格化した神功皇后(じんぐうこうごう)であり、九枚のお札を束にして十枚目のお札を横にして「帯」(おび)として纏めたものを「木菟」(ずく)と呼びます。

 

「木菟」(ずく)は「九頭」(くず)の反対で、夜を守る「フクロウ」を意味し、視野が広くて夜目がきく西の守護神の広目天(こうもくてん)に当たります。

 

「木菟」と「九頭」の関係

 

息長(翁が)帯(たらし)た姫であり、神功皇后を補佐した300歳生きたと言われる翁(おきな)の武内宿禰(たけうちすくね)は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)を象徴するようです。

 

また、「弥」(や)は「弥」(み)とも読める事から、天岩戸が開き、天照大神の娘として宗像三女神(むなかたさんじょしん)の「三」(み)が生まれた事も象徴し、春の到来を告げる季節だという意味のようです。

 

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