竹取物語 月へ帰って行くかぐや姫

 

大阪府羽曳野市島泉にある明教寺(みょうきょうじ)というお寺があります。

 

推古天皇が白衣の老婦が「鳳凰(ほうおう)」に乗って舞い降りたという夢を見て、それを聞いた聖徳太子が、吉兆の夢だとして建てたお寺だそうです。

 

百済より白い雉が献上され、それを金堂の拝石の下に埋葬して、昔は鳳凰寺と呼んだそうです。

 

「鳳凰」とは、霊泉(甘い泉の水)だけを飲み、60~120年に一度だけ実を結ぶという竹の実のみを食物とし、梧桐(あおぎり)の木にしか止まらないという伝説の鳥で、その卵を食べたものは、不老長寿になるとされ、特に中国の殷王朝(いんおうちょう)陶器装飾に見られ、「殷(いん)」の時代には風の神として信仰されたようです。

 

私は、明教と聞いて思い浮かべるのは、マニ教で、この「鳳凰」が、「ケルビム」と同一視されていたんじゃないかと思います。

 

マニ教とは、ペルシアでゾロアスター教、キリスト教、仏教を吸収して出来た混交宗教です。

 

「殷(いん)」は、契(せつ)という人物を始祖とするのですが、彼の出生には伝説があります。

 

黄帝の子孫である簡狄(かんてき)というお姫様が、五色に光る珍しい卵をくわえた玄鳥が、卵を落としてしまったのを見て、それを妹と取り合いしているうちに、誤って、卵を飲み込んでしまい、契(せつ)という人物が生れたとされます。

 

つまり、「殷」では、鳥をシンボルとする為に、鳳凰がモチーフとして使用されたようです。

 

飛鳥時代に、蘇我氏が日本に持ち込もうとしていたのは、仏教という名のマニ教で、元々、「天使」の発祥で、鳥を信仰するゾロアスター教とも内容が似ていて、「秦氏」のキリスト教と利害が一致したのかもしれません。

 

「殷」は都の名前で、本当は、「商(しょう)」という国なのですが、都を点々と移動していて、最後に都を構えた場所が「殷」と呼ばれて300年も続いた為、こちらの名前の方が有名になってしまいます。

 

日本を江戸と呼ぶようなもので、本来は違うのですが、「殷」の方が分りやすいので、「殷」と書かれることが多いようです。

 

「商(しょう)」を倒したチベット系の王朝の「周(しゅう)」人々も、「商」と「周」が、読みが似ていて混同されることを嫌って、「殷(いん)」と呼んだようです。

 

この「商」(殷)が滅亡した後は、「楚」(そ)が文化的に遅れていた為、積極的に「殷」の遺民を受け入れ、「楚」が「殷」に代わって鳳凰の国を名乗ります。

 

また、「殷」の最後の王様であった紂王(ちゅうおう)の一族は、「殷」が滅亡した後、「宋」(そう)という国を建て、これが現代の漢民族へと繋がっていきます。

 

中国は、いろいろな王朝が誕生しましたが、ほとんどが異民族による王朝で、漢民族の王朝は、この「宋」(そう)と、「明」(みん)の王朝になります。

 

「商」(殷)が滅んで職を失った人達は、店舗を持たず、各地を渡り歩き、物を売って生計を立てていたので、そこから「商人」という言葉が生れたそうです。

 

仏教が中国に伝わるのが、後漢の時代なので、シルクロードを通じて、こうした商人(ソグド人)が、日本に仏教をもたらしたのかもしれません。

 

それから、厩戸皇子(うまやどのおうじ)の話に戻りますが、「蘇我氏」は、蘇我馬子という名前から分かるように馬とも係わりが深かったようです。

 

蘇我氏が信仰した弥勒菩薩の弥勒も、弓矢の「弥」と、馬が口にくわえる馬具の「勒」(くつわ)という字が当てられています。

 

蘇我入鹿(そがのいるか)も元々は、蘇我鞍作(そがのくらつくり)と言います。

 

「鞍」(くら)とは、人を乗せる目的で、馬の背に取り付ける馬具のことです。

 

おそらく、馬は、蘇我氏によって日本にもたらされたのだと思います。

 

イルカを中国語で「海猪」と書きます。

 

海は海人族(あまぞく)を表します。

 

名前が入鹿と変えられたのは、蘇我が、「鹿に入る」という意味があるように思います。

 

猪と、鹿については、後で、また触れますが、猪は蘇我氏のことで、鹿は、おそらく、

 

藤原不比等の母親の鏡王女(かがみのおおきみ)で、秦氏のことだと思います。

 

蘇我入鹿は、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を、天皇につけようと図り、聖徳太子の王子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)ら、上宮王家の人々を自殺に追い込んだとされます。

 

蘇我入鹿は、643年(皇極天皇2年)10月6日に蘇我馬子から独断で大臣を譲られて、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだものと思っていたところ、聖徳太子という天才が現れて、天皇中心に国政を改革しようという動きが、聖徳太子の息子の山背大兄王(やましろのおおのおう)を中心に高まったので、危機感を感じた蘇我入鹿が、蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を天皇につけることで、蘇我氏の権力を維持しようとしたというのが現在の通説です。

 

ただ、その為に邪魔になった山背大兄王(やましろのおおえのおう)を消すというのは分りますが、何故、同じく皇位継承者であった中大兄皇子(天智天皇)を消さずに残しておいたのかが疑問に思えます。

 

推古天皇や、皇極天皇などの女帝が出る時は、皇位継承者が決まらなくて、しかたなく女帝を置いているケースが多いので、女帝の子供は皇位を継げないという暗黙のルールがあったのではないかとする説を唱える方がおられますが、これも、皇位継承者として一番危険な中大兄皇子(天智天皇)をほっておいた不自然さから出ているものです。

 

私は、蘇我入鹿と、中大兄皇子(天智天皇)が繋がっていて、蘇我入鹿は、完全に安心していたのではないかと思います。

 

仲介したのは、皇極天皇で、日本神話の日本武尊(ヤマトタケル)が、伊勢の斎宮に住む叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から饒速日命の剣である「草薙の剣」を渡されたというのは、倭姫命(やまとひめのみこと)からの仲介で、饒速日命の末裔「草薙の剣」を持つ尾張氏が味方になり、力を持ったということを表しているのかもしれません。

 

つまり、倭姫命(やまとひめのみこと)は、皇極天皇のことで、蘇我入鹿は、蘇我氏を滅ぼすために、利用されたのかもしれないということです。

 

繋がっていたのを公にしていなかった理由は、穴穂部皇子(あなほべのおうじ)と繋がっていて、滅ぼされた物部守屋(もののべもりや)の教訓があるからだと思います。

 

天智天皇は、蘇我入鹿を暗殺した後、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)が謀反を企てているとして消してしまい、その幼い娘の倭姫王(やまとひめのおおきみ)を養育し、皇后にします。

 

日本武尊(ヤマトタケル)の叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)とは名前は似ているのですが倭姫王(やまとひめのおおきみ)とは、別人のようです。

 

倭姫王(やまとひめのおおきみ)を皇后にしたのは、蘇我氏の残党を傘下に取り込む為の意図があったのだろうと思います。

 

奈良県橿原市小綱町(しょうこちょう)にある入鹿神社には、蘇我入鹿と、素戔嗚尊が今も祀られています。

 

「蘇我氏」は、元々は、饒速日命(阿知使主/あちのおみ)党類十七県を率いて渡来した東漢氏(やまとのあやし)の一人で、「葛城氏」と同じように天皇の外戚になることで権力を得ました。

 

東漢氏(やまとのあやし)は、鹿や、龍など、角をシンボルとする百済系の民族で、半農、半牧の山の民です。

 

角は、剣や、刀など、先の尖っている武器と同じ、武力の象徴です。

 

後の「物部氏」のように軍事氏族としての狩猟民族的な要素と、稲作の農耕民族的な要素の両方を持ち合わせていたようです。

 

日本に最初に稲作を伝えたのも彼らですが、「水田」の稲作ではない「焼畑」の稲作でした。

 

「焼畑」は、「薙畑(なぎはた)」とも言います。

 

稲のことを「登美草(とみくさ)」と言い、スサノオの持つ「草薙の剣(くさなぎつるぎ)」は、「焼畑の剣」とも言えます。

 

米の収穫量の少なかった縄文時代は、椎(しい)の実や、栗や、ドングリなどの木の実も、ごちそうだったようです。

 

鹿の角を削った釣り針も、縄文時代の遺跡から見つかっているので、魚も重要な食料だったようです。

 

山から取れる土から土器を作り、祭祀を行い、雨乞いをしたのだろうと思います。

 

他にも、縄文時代の遺跡から発掘されているものに、「櫛(くし)」や、「翡翠(ひすい)」があります。

 

「翡翠」は、丸く研磨されていて、しかも、金属のない時代に穴まで開けられて、縄文時代と言えど、かなりの高度な技術を持っていたようです。

 

蘇我氏が、その後、「翡翠(ひすい)」に目をつけ、独占して、シルクロードを通して貿易で、富を築いていきます。

 

それから、「櫛(くし)」は、漆(うるし)が塗られていたりするものもあり、縄文時代から漆器の技術があったようです。

 

長江河口にある河姆渡遺跡(かぼといせき)で発掘された漆椀は、約6200年前のものだったので、漆器は中国が発祥地で、技術は大陸から日本に伝わったと考えられていましたが、北海道の南茅部町の垣ノ島遺跡(かきのしまいせき)から出土した漆の装飾品は、米国での放射性炭素年代測定により中国の漆器を大幅に遡る約9000年前縄文時代前期の装飾品であると確認されました。

 

さらに福井県の鳥浜貝塚で出土した漆の枝は、分析の結果、世界最古の約12600年前のものだということが分っているそうです。

 

日本の職人気質は、縄文時代から始まっていたのかもしれません。

 

「櫛(くし)」の話に戻りますが、「櫛」は、髪(神)を分けるという意味から、特別な霊力があるものだと信じられていました。

 

「櫛」は、「串(くし)」と同じ意味があり、「中」が分かれます。

 

別れるという意味なので、「櫛」を贈答品にすることは避けた方が良いようです。

 

黄泉の国で、イザナミの追ってから逃げる為に、イザナギが「櫛」の歯を折って投げると、「筍(たけのこ)」になって、追ってを喰い止めたという話があります。

 

これは、分けるということが結界を表し、悪縁を断つということだと思います。

 

イザナギが投げた「櫛」の歯から生れた「筍」は、成長すると「竹」になりますが、「竹」の節目も分れを意味します。

 

厄を落とすのに、「竹」は良いとされ、縁起物とされるのは、この為です。

 

「竹」は竹取物語などのかぐや姫に登場する象徴的な植物で、秦氏を意味するようです。

 

竹取物語に登場する阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂、車持皇子(藤原不比等)、石作皇子(多治比嶋)の5人の公達は、壬申の乱の功臣で天武天皇と持統天皇に仕えた人物になります。

 

おそらく、天武天皇が秦氏を「竹」と結び付けたのだと思われますが、その元は、「櫛」(くし)だという事が言いたいのではないかと思います。

 

日本書紀の崇神天皇19月の条に、「三輪山伝説」と呼ばれる次のような説話が載せられています。

 

倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめ)が、大物主命(オオモノヌシノミコト)の妻になったが、大物主命が、いつも夜しか表れないので、素顔を見せて欲しいと願います。

 

すると、大物主命は、翌朝、「櫛」の箱の中に入っているから、決して驚かないで欲しいと頼みます。

 

姫は、怪しんだが、明くる朝に「櫛」の箱を見てみると、そこには、まことに美麗な小蛇がいて、思わずそれに驚いて叫んでしまいます。

 

大物主命は恥じて、人の形になって、大空をかけて御諸山に登ってしまい、姫は箸で陰(ほと)を突いて死んでしまい、その墓が、箸墓古墳(はしはかこふん)と呼ばれたそうです。

 

箸墓古墳は、奈良県の桜井市にあり、これが、卑弥呼の墓ではないかという説を唱える人もいます。

 

私も、それが妥当だと思います。

 

箸で陰(ほと)を突いたのと、箸墓古墳については次の章でお話しようと思いますが、「櫛」が饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を象徴する言葉だということが、この話でもよく分ります。

 

饒速日命(物部氏)の同族に藤原氏がいます。

 

藤原氏の関係の深い神様は、「天」と書くのに読みは、アメノ…というのは出雲系の龍神の「雨」を表しているからだと思います。

 

神武天皇による建国神話が、「日本書紀」に書かれています。

 

神武天皇の夢に天神が現れて、「天の香具山(あめのかぐやま)」の土を取って天の平瓮(ひらか)を80枚造り、また神聖な瓮(かめ)も造って、天神地祇を敬い祀れ。

 

また、おごそかな呪詛も行え。そうすれば、敵どもは自然に降服するだろうお告げがあったそうです。

 

奈良県の橿原市に「大和三山(やまとさんざん)」と呼ばれる山があります。

 

「耳成山(みみなしやま)」、「天香久山(あまのかぐやま)」、「畝傍山(うねびやま)」の三つの山が輪のように存在します。

 

「天香久山」(あまのかぐやま)の香久(かぐ)は、香(かぐ)わしい「橘」の香りを象徴するかぐや姫の山で別名を「橘山」(たちばなやま)とも呼びます。

 

豊受大神のシンボルであり、秦氏を象徴する山です。

 

北側に橘諸兄(たちばなもろえ)の墓があり、南側に天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる天岩戸神社があり、境内には「七本竹」と呼ばれる「竹」があります。

 

天武天皇は蘇我氏系の天皇で建御名方神(たけみなかたのかみ)であり、「竹」がシンボルになります。

 

かぐや姫は「竹」から生まれた事になっていますが、鎌倉時代中期の紀行文学の「海道記」(かいどうき)では赫奕(かぐや)姫は、鶯(ウグイス)の卵から生まれるバージョンもあります。

 

鶯は若草山の鶯塚古墳の鶯で、「ホー、ホケキョウ」という鳴き声が「法華経」(ほけきょう)を唱える鳥として推古天皇と結びついた鳥です。

 

初代、天照大神の卑弥呼(ひみこ)で、かぐや姫はその後継者ということで、月である台与(とよ)の子供の壱與(いよ)を意味するようです。

 

「耳成山」(みみなしやま)は別名を「天神山」(てんじんやま)と呼びます。

 

元々は、八岐大蛇(やまたのおろち)の物部守屋を象徴する山だったものと思われますが、蘇我倉山田石川麻呂によって秦氏と物部氏が一つになって八咫鏡(やたのかがみ)を象徴する八咫烏(やたがらす)が誕生します。

 

秦氏と東漢氏が一つになって出雲族となり、「梅」がシンボルとなります。

 

この大和三山のすぐ側にある山を「三輪山(みわやま)」として、饒速日命が祀られ、大神神社(おおみわじんじゃ)と呼ばれ、物部氏の神社となります。

 

蘇我氏は、「畝傍山」(うねびやま)の北にある現在の橿原市曽我町辺りに住んでいたらしく、蘇我馬子が、蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)を祀った宗我坐宗我都比古神社(そがのそがつひこじんじゃ)という神社があります。

 

蘇我入鹿の代わりに蘇我倉山田石川麻呂を祀っているものと思われます。

 

「畝傍山」(うねびやま)は、元々は蘇我氏の山と言えます。

 

山頂に「松」が植えられていて、現在の西の麓にある畝火山口神社が山頂にあった時期もあった事から、蘇我氏の山を物部氏の山に変えようとしたのかもしれません。

 

「松」は天智天皇のシンボルで、山口神社は物部氏の神社だからです。

 

蘇我氏系の聖徳太子(しょうとくたいし)は、別名を豊聡耳(とよとみみ)と呼ばれ、「耳」が象徴的な人物です。

 

私は蘇我入鹿の功績を聖徳太子の手柄とする為の架空の人物ではないかと思っています。

 

「聖」という漢字は、「聖書」という言葉にも使われるように、キリスト教とも関係の深い言葉です。

 

汚れがなく尊いという意味だそうです。

 

聖徳太子の建てた法隆寺の秘仏である救世観音(くぜかんのん)は救世主を意味します。

 

厩戸(うまやど)で生まれた経緯もイエス・キリストを思わせます。

 

その「聖」は、「耳」+「呈」という漢字から出来ていて、「呈」は、まっすぐ述べるという意味なので、耳がまっすぐとおり、「聡」(さと)いという意味だそうです。

 

「聡」は「恥」(土師氏)という言葉に「公」(こう)を足した言葉ですが、「公」(こう)は大国主命の「国」を表す言葉で国に仕える役人を公務員と言ったりします。

 

「公」(こう)は「公}(おおやけ)とも読み、大きい住まいである「大宅」(おおやけ)を意味します。

 

出雲大社しかり、仁徳天皇陵しかりです。

 

京都の山科区(やましなく)に大宅(おおやけ)という地名があり、山科で一番古い神社とされる「岩屋神社」という神社があります。

 

天智天皇を象徴する天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と、遠智娘を象徴する栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)とその子供の饒速日命(にぎはやひのみこと)が祀られています。

 

ここでも、物部氏と秦氏が結び付いて饒速日命(三輪明神)が誕生した事が強調されています。

 

神話では、天忍穂耳命は天照大神と素戔嗚尊の誓約で誕生した天照大神の5男の長男ですが、天照大神から高天原(たかまがはら)から地上に降りて葦原中国(あしはらなかつくに)を平定してほしいと依頼がありましたが、それを拒否して代わりに子である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を派遣しました。

 

つまり、皇極天皇の依頼を断って蘇我氏と結び付きの強かった孝徳天皇を皇位につけた天智天皇を意味するようです。

 

この神社で祀られていない瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は饒速日命の弟で蘇我氏を表します。

 

秦氏系の天照大神と蘇我氏系の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を繋ぐ役割が天忍穂耳命であり、大化の改新で一度リセットされ、物部氏が中心に変わるということのようです。

 

聖徳太子(聡)は、土師氏(恥)に大国主命(公)を足した人物だというわけです。

 

蘇我氏を悪役とする神話に、「手研耳(タギシミミ)の反逆」と呼ばれる話があります。

 

タギシとは、滾(たぎ)るの意味で、水が逆まいて激しく流れる様子を表します。

 

神武天皇は、饒速日命の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)と結婚して3人の子供がいました。

 

《 「日子八井命」(ヒコヤイノミコト) 》

 

《 「神八井耳命」(カムヤイミミノミコト) 》

 

《 綏靖天皇(すいぜいてんのう)の別名「神沼河耳命」(カムヌナカワミミノミコト) 》

 

の3人です。

 

その他に、同じく神武天皇の子供なんですが、母が、ヒメタタライスズヒメではなく、日向の阿比良比売(アヒラヒメ)の子供もいました。

 

《 「手研耳命」(タギシミミノミコト) 》

 

《 「岐須耳命」(キスミミノミコト) 》

 

の2人です。

 

5人の登場人物の中で、「耳」という漢字が入っていないのが、「日子八井命」(ヒコヤイノミコト)ただ一人です。

 

神武天皇が即位したのは、紀元前660年ごろだとされ、ちょうど弥生時代(やよいじだい)始まる時代で、ヤマト王権に従わない民族を次々と薙ぎ倒していく過程で、「蘇我氏」の武力が、物を言った時代です。

 

「タギシミミの反逆」の話は、アヒラヒメの息子のタギシミミが、饒速日命の娘であるヒメタタライスズヒメを妻にし、その3人の子供を暗殺しようと企んでいて、それを知ったヒメタタライスズヒメが、「狭井河(さいかわ)から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして、木の葉がざわめいている」という内容の歌を詠んで、子供たちに危険を知らせました。

 

狭井河(さいかわ)は、「大神神社(おおみわじんじゃ)」と、「檜原神社(ひはらじんじゃ)」の間にあり、その隣りに「狭井神社(さいじんじゃ)」と呼ばれる神社があります。

 

狭井河(さいかわ)とは、賽の河原(さいのかわら)のことで、あの世とこの世を分ける三途の川(さんずのかわ)のことです。

 

「大神神社(おおみわじんじゃ)」と、「檜原神社(ひはらじんじゃ)」は、ヒメタタライスズヒメのご先祖様を祀っている神社で、ご先祖様が危険を知らせているということです。

 

その歌の意味を解した神八井耳命(カムヤイミミノミコト)と、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)の2人が、タギシミミを討ったという話です。

 

おそらく、日子八井命(ヒコヤイミコト)は、「耳」が無かったので、身の危険に気付かず殺されてしまったという意味で、「耳成山」(みみなしやま)は、蘇我氏に殺された物部守屋(物部氏)山です。

 

神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)=綏靖天皇(すいぜいてんのう)は、欠史八代(けっしはちだい)の1人で、実在しない天皇と捉える見方が一般的ですが、この話は、大化の改新の際の宮中クーデターの様子を反映したものとなっています。

 

神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は、蘇我倉山田石川麻呂臣のことで、神沼河耳命(カムヌナカワミミノミコト)は、中大兄皇子(天智天皇)のことです。

 

そして、手研耳命(タギシミミノミコト)は、殺された蘇我入鹿のことだと思われます。

 

蘇我倉山田石川麻呂臣は、中大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足(藤原鎌足)と共謀して蘇我入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げました。

 

その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われます。

 

そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えたと言われます。

 

その後、石川麻呂は改新政府において右大臣に任命されましたが、大化5年(649年)、異母弟の日向に謀反を起こそうとしていると密告され、孝徳天皇により兵が派遣され、自害します。

 

現在では、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされています。

 

物部守屋と思われる日子八井命(ヒコヤイミコト)は、茨田連(まむたのむらじ)と、手島連(てしまのむらじ)の祖とされます。

 

手島連(てしまのむらじ)とは、豊島郡(てしまぐん)の氏族で、現在の大阪府豊中市に住んでいたようです。

 

769年5月称徳天皇が豊島の人15人に姓を授けたと「続日本紀」には書かれ、院政期には豊島地方の多くは藤原氏の私領になり、藤原氏の氏神春日神社とも結ばれました。

 

茨田連(まむたのむらじ)の方は、現在の大阪府守口市全域、門真市全域、寝屋川市の一部(旧友呂岐村・九個荘村)、枚方市の一部(旧枚方町・蹉跎村)、大東市の一部(旧南郷村)、大阪市鶴見区の一部(旧茨田町)に相当する茨田郡(まんだのこおり)の氏族です。

 

茨田には茨田堤(まむたのつつみ)と呼ばれる堤防がありました。

 

                 河伯(菊池容斎 画)

 

大阪には、母なる大河とされる淀川が流れています。

 

淀川は流域面積に比べて流水量が驚異的に多く、夏の熱帯性低気圧と、冬のシベリア寒気団による降雪を水源にしている為、推古天皇時代から大正のころまでの1325年間に、250回の大洪水があったと言われています。

 

日本書紀の仁徳11年の記事に、「天皇は川尻が澱んで通水が悪く、雨が降るとすぐ田畑にあふれて災害をもたらすので、川底を深く掘り、悪水を海に流す工事をせよ」と厳命したとあります。

 

早速、当時は広大な低湿地だった茨田に、茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に、難波堀江を開削して、流水を現在の大阪湾に流れるように工事にかかりました。

 

しかし、茨田地域には、どうにもならない決壊しやすい「絶間」(たえま)と呼ばれる場所が2ヶ所あって、工事が思うように進みません。

 

ある夜、天皇の夢枕に神様が立ち、「武蔵(現在の埼玉県)の住人の強頸(こわくび)と、河内の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)の2人を、河伯(かはく)という川の神げれば必ず工事は成功する」とのお告げがあり、2人が人柱(ひとばしら)として探し出されます。

 

人柱とは、工事を成功させるために、神への生贄として、生きながら土に埋められたり、川に沈められる犠牲者のことです。

 

河伯(かはく)とは、中国神話に登場する黄河の神で、人の姿をしており、白い亀、または白い龍に乗っており、若い女性を生贄として求め、生贄が絶えると黄河に洪水を起こすとされ、黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とし、洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれたとされます。

 

まるでヤマタノオロチのような話ですが、河伯(かはく)は、「西遊記」の登場人物の沙悟浄(さごじょう)だと言われます。

 

沙悟浄(さごじょう)は、日本では亀の甲羅を持つ河童(かっぱ)とされますが、仏教では玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)を守護し、般若経をインドから持ち帰るのを助けた砂の神様の深沙大将(じんじゃたいしょう)=素戔嗚尊だとされます。

 

天武天皇の子孫と考えられる小野氏(おのし)の出身である小野小町(おののこまち)を愛した深草少将(ふかくさしょうしょう)は、世阿弥(ぜあみ)の創作した人物ですが、深沙大将を意識した名前で、天武天皇が素戔嗚尊(蘇我氏)の後継者であることを暗に示した名前だと思います。

 

河伯(かはく)は、高句麗など、扶余系国家の建国神話では、主人公の母の父親として登場します。

 

捕らえられた強頸(こわくび)は泣きわめきながら「絶間」に投げ込まれ、衫子(ころものこ)は、もう一つの「絶間」に連れていかれましたが、突き落とされる前に、瓢箪(ひょうたん)を取り出し、「河神、祟りて我を人身御供にしようとする。我を人身御供にしようとするなら、この瓢箪を沈めてみよ。もし、沈める事が出来たなら、真の神と知りて、自ら河中に入ろう。

 

もし沈める事が出来なければ、偽(いつわり)の神と知りて、無駄死にするものか」と叫んで瓢箪を川に放り込んだそうです。

 

つむじ風が起こって、瓢箪は一度、沈みそうになりますが、再び浮かび上がり、川面を踊りながら川下へ流れて行きました。

 

こうして、衫子(ころものこ)は、人柱にもならず、工事は成功したそうです。

 

さて、この人柱にならずに助かった茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)ですが、「茨田」(まむた)は「万桙田」(まむた)とも書かれ、湿地帯を表す言葉だとされますが、「茨」(まむ)は、イエス・キリストが処刑される時に被せられた「茨(荊)(いばら)の冠」であり、キリスト教を意識した名前だと私は思います。

 

本来、冠は名誉や栄光を表すものですが、イエスを処刑する際にローマ兵が嫌がらせで侮辱の意味を籠めて被せたもので、キリスト教徒にとって「茨」(いばら)は「受難」を表す特別な意味があるものだと思います。

 

おそらく、「冠」(甲)を象徴する皇極天皇の事を表しているものと思います。

 

「万桙田」(まむた)の「万」は「満月」を意味し、「桙」(ほこ)は蘇我氏を表します。

 

大国主命が「八千桙の神」(やちほこのかみ)と言われるのも、蘇我氏(素戔嗚尊)の後継者だからです。

 

しかも、「八千」(やち)は「君が代」の「千代に八千代に」の8000年を表す「八千」(やち)であり、「桙」の中でも「巨大な桙」を意味するようです。

 

しかし、「万桙田」(まむた)の「万桙」(まむ)は更にその上をいく10000の「桙」だというわけです。

 

天武天皇は宗像水軍を率いた海の民なので大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれ、ギリシャ神話のポセイドンと同じく「三又の桙」(みつまたのほこ)がシンボルになります。

 

三つを保つ「三(佐)保」(さほ)=狭穂彦(さほひこ)という別名もあります。

 

「瓊瓊杵尊」(ににぎのみこと)が降臨したとされる高千穂峰の山頂部に突き立てられた「天逆桙」(あめのさかほこ)は「三又の桙」であり、天武天皇を表しているものと思います。

 

「逆さま」に突き刺されているのは、「逆」(さか)が「坂」(さか)など「釈迦」(しゃか)を崇拝した蘇我氏を意味するようです。

 

「衫子」(ころものこ)の「衫」(ころも)は「袖の無い肌着」を意味し、「君は袖振る」の天武天皇ではない人物という意味で、天智天皇を表しているのではないかと思います。

 

物部氏系の敏達天皇(びだつてんのう)=大国主命の血を引く皇極天皇だと、「衫子」(ころものこ)の「子」(こ)の意味が理解出来ます。

 

ギリシャ神話ではポセイドンとアテナイ市の支配権をめぐって争ったゼウスの娘のアテナが皇極天皇になるのかもしれません。

 

ゼウスは皇極天皇の父ではなく、子供なのですが、大国主命の親である大物主命=天智天皇を意味するのだと思います。

 

衫子(ころものこ)は、「沈まない舟」=「瓢箪」(ひょうたん)によって助かります。

 

「瓢箪」はくびれがあって、二つの丸が一つになったような独特の形をしています。

 

東大阪市に瓢箪山稲荷神社(ひょうたんやまいなりじんじゃ)があり、「瓢箪」は推古天皇と皇極天皇が一つになる意味があり、「稲荷」はそれを仲介した豊受大神(とようけのおおかみ)を表すようです。

 

一つになる事によって皇室の「絶間」(たえま)が無くなって無事「橋」が出来たという事のようです。

 

「絶間」(たえま)は「太間」(たいま)とも書かれ、當麻寺(たいまでら)の「當麻」(たいま)の意味も含ませているようです。

 

當麻寺は阿倍貞媛(あべのさだひめ)を母に持つ藤原豊成(ふじわらのとよなり)のお寺で、天武天皇と蘇我倉山田石川麻呂の(阿倍氏)を藤原氏に繋いだ子孫(安倍氏)のお寺になるようです。

 

「衫子」(ころものこ)が皇極天皇なら、人橋となってしまった「武蔵の強頸(こわくび)」とは、いったい誰なのかと疑問がわきます。

 

実は、武蔵の国には、200社も、氷川神社(ひかわじんじゃ)と呼ばれる神社が集中してあります。

 

「国造本紀」によると、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝えられ、成務天皇の時代に出雲の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造となり、当社を崇敬したそうです。

 

この一帯は出雲族が開拓した地であり、武蔵国造は出雲国造と同族だそうです。

 

私は、武蔵の強頸(こわくび)は天武天皇の事ではないかと思っています。

 

兄多毛比命(えたもひのみこと)は毛が多いと書かれる事から、蝦夷(えぞ)を表す佐伯氏(さえきし)=長脛彦(ながすねひこ)を表し、天武天皇を佐伯氏(出雲)の中に加える意味があるものと思います。

 

佐伯氏は物部氏の配下で、縄文人を表しているものと考えられます。

 

毛が生えた「夷子別之神」(えびすわけのかみ)が佐伯氏に加わった天武天皇になり、夷子(えびす)は恵比寿(えびす)さんの八岐大蛇(やまたのおろち)で、その「尾」(お)となる尾張氏(おわりし)を指すようです。

 

「夷子別之神」は「白媛神」(しらひめがみ)=「菊理媛神」(きくりひめかみ)と夫婦になるようで、「菊理媛神」は推古天皇を表す蘇我氏の女神です。

 

當麻寺は太陽が沈む「二上山」(ふたかみやま)の麓にあり、二つの山は、元々は皇極天皇と蘇我倉山田石川麻呂を表していたようです。

 

それが、天武天皇の孫の長屋王が亡くなってからは、皇極天皇と天武天皇に変ったものと思われます。

 

皇極天皇と天武天皇について

 

氷川神社(ひかわじんじゃ)のご祭神は、素戔嗚尊で、おそらく蘇我氏と関係の深い天武天皇を表しているものと思われます。

 

野見宿禰(のみのすくね)に倒される當麻蹴速(たいまのけはや)は体に毛が生えている毛蠅(けばえ)で、蠅(はえ)が蛆(うじ)の親である事から素戔嗚尊と一心同体となった天武天皇を表しているものと思われます。

 

氷川(ひかわ)とは、出雲の簸川(ひかわ)と同じ意味で、現在の島根県の斐伊川(ひいかわ)に当たります。

 

乱暴を働いて、高天原を追放になった素戔嗚尊が最初に人間界に降り立ったのが、出雲の簸川(ひかわ)と言われます。

 

この川は当時、たたら製鉄の鉄サビにより真っ赤な色の川だったと言われます。

 

簸川(ひかわ)とは、火川(ひかわ)の意味で、武蔵国の氷川(ひかわ)に氷という文字を使うのは、たたら製鉄が行われなくなって、この川の色が、赤ではなく、青に変わったからだと思います。

 

天武天皇に嫁がせた藤原鎌足の娘の氷上娘(ひかみのいらつめ)の「氷」のイメージが「青」であり、通常、不動明王は天智天皇を表すのですが、京都の東山区にある将軍塚の天台宗の青蓮院門跡(しょうれんいんもんぜき)の青不動明王は藤原鎌足を指すものと思われます。

 

氷上娘の母は不明ですが、おそらく鏡皇女(かがみのおおきみ)で、天智天皇が藤原鎌足に与え、生まれた子を天武天皇に嫁がせたのではないかと思います。

 

鏡皇女は推古天皇の同族で、氷上娘は推古天皇の代わりなのかもしれません。

 

大化の改新後、皇極天皇が譲位したのは孝徳天皇ではなく、蘇我倉山田石川麻呂(仁徳天皇)で、孝徳天皇に嫁いだと言われる蘇我倉山田石川麻呂の長女の乳娘(ちのいらつめ)は、天智天皇が藤原鎌足に与えたとされる鏡皇女の事ではないかと思います。

 

氷上娘には五百重娘(いおえのいらつめ)という妹がおり、こちらも天武天皇に嫁いで新田部皇子(にいたべのみこ)を生みましたが、天武天皇の没後、藤原不比等の妻となり、藤原京家の祖の藤原麻呂(ふじわらまろ)を生みます。

 

伝承では藤原不比等は鏡皇女の子供ですが、天智天皇が藤原鎌足に鏡皇女を与えた時点で、既に妊娠していて、生まれた子供が女であれば天智天皇が貰い、男であれば鎌足の子として育てよと言われて、生まれたのが男である藤原不比等だったので、藤原鎌足と藤原不比等は血が繋がっていない事になります。

 

しかし、藤原麻呂で鎌足と不比等(天智天皇の子)が繋がった形になります。

 

天智天皇や、藤原鎌足が自分の娘を天武天皇に嫁がせたのは、それだけ蘇我氏を率いる天武天皇の力が強大で、おそらく、天智天皇より年上で「兄」に当たる存在であったので、機嫌を取って味方にしておかなければならない人物だったのだと思われます。

 

しかし、天武天皇が崩御してからは、「兄」から「弟」へと入れ替えられたものと思われます。

 

そして、この青不動明王が皇極天皇の宗像三女神(海部氏)と一つになったものが、和爾氏を表す蔵王権現(ざおうごんげん)になるようです。

 

簸川(ひかわ)の氾濫を八岐大蛇(ヤマタノオロチ)に例えていたようですが、氷川(ひかわ)になり、退治が出来たということのようです。

 

八岐大蛇(やまたのおろち)はギリシャ神話のハデスに当たります。

 

記紀によると、高天原より天下り、川原に立った素戔嗚尊が、川の上流より「箸」(はし)が流れて来たのを見つけて、この先には人がいるに違いないと思って進んで行くと、そこに翁と媼が泣いていて、素戔嗚尊が、何故泣いているのだ?と尋ねると、八岐大蛇生贄になる櫛稲田姫(クシイナダヒメ)を哀れに思って泣いていると事情を話します。

 

櫛稲田姫(クシイナダヒメ)とは、「箸」を象徴する人物で、川の氾濫によって災害にあう田畑の比喩だとされます。

 

ギリシャ神話でハデスが妻にする為に略奪した穀物神ぺルセポネーが櫛稲田姫(クシイナダヒメ)に該当するように思います。

 

「箸は、蘇我氏(聖徳太子)が日本に持ち込んだ文化で、川を渡る「橋」(はし)は中国の夏王朝(かおうちょう)の禹(う)が治水の神とされ、その末裔の秦氏が治水技術に長けていました。

 

                       仁徳天皇

 

生贄(人柱)が必要だと言い出した仁徳天皇(にんとくてんのう)は、鹿の耳から表れた早贄(はやにえ)のモズに例えられ、治水技術を得意とする秦氏を使って、川の氾濫を防いだ蘇我氏を表す天皇だとされます。

 

そして、豊受大神(お稲荷さん)を象徴する垂仁天皇(すいにんてんのう)が古墳の中に生贄(人柱)を埋めた風習を禁止し、代わりに埴輪(はにわ)を埋めたとされます。

 

私は仁徳天皇のお墓は日本で最も大きく、物部氏系の天智天皇の時代になった後も現存している事から、蘇我氏の役を演じた蘇我倉山田石川麻呂の墓ではないかと思っています。

 

実際は物部氏に味方した秦氏で八咫烏(やたがらす)を象徴するようです。

 

埴輪や、古墳を造る技術を持つ土師氏の墓で、子孫を多く残した大国主命の墓の意味を持つのかもしれません。

 

天智天皇を象徴する仁賢天皇(にんけんてんのう)が雄略天皇の墓を小さく削ったと古事記には記されている為、素戔嗚尊と似ている雄略天皇は、蘇我入鹿を象徴する天皇かもしれません。

 

大阪に難波(なんば)と呼ばれる地域がありますが、大阪は昔は大きな海で、内海と外海の潮の干潮が、とても激しく、この地名を「波速(なみはや)」と呼び、それが訛って浪速(なにわ)や、難波(なんば)になりました。

 

仁徳天皇は、この内海の海流を良くする為に、堀江(ほりえ)という運河を掘削したと古事記には書かれています。

 

現在、大阪に堀江(ほりえ)という地名があり、そこにある難波神社には、仁徳天皇と素戔嗚尊が祀られています。

 

応神天皇(おうじんてんのう)の崩御後、次の天皇になる候補が3人いたと言われます。

 

大山守皇子(おおやまもりのみこ)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)です。

 

大山守皇子(おおやまもりのみこ)は、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の立太子の際、兄である自らが皇太子になれなかったことを恨んで、皇太子の殺害を企て、これを知った皇太子と、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が、淀川(菟道川)の渡航中に舟を転覆させ、大山守皇子(おおやまもりのみこ)を水死させたと言われます。

 

その後、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)に皇位を譲るために、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は自殺したとされ、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が、仁徳天皇として即位します。

 

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は蛆の湧いた伊弉冉命(いざなみのみこと)=秦氏を表す人物で、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が蘇我氏を表す天皇ですが、この二人は同一人物を表していて、秦氏の顔が無くなり、悪役としての蘇我氏を演じているのかもしれません。

 

大山守皇子(おおやまもりのみこ)は物部守屋で、秦氏である菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)は聖徳太子に仕える形で秦河勝(はたのかわかつ)という名前に変ります。

 

河勝(かわかつ)とは、「川に勝つ」という意味のようで、蘇我氏である聖徳太子と秦氏である秦河勝も物部氏の為に働くという事のようです。

 

「猿楽」を生み、伝統芸能を通じて不老不死を捨てた「翁」(おきな)=「藤原鎌足」の正義を伝える役割を持ちます。

 

古代中国における不老不死の仙人の住む山と信じられた蓬莱山(ほうらいさん)と呼ばれる伝説の山があります。

 

現在の日本の滋賀県に同じ蓬莱山と呼ばれる山があり、比良山地中部に属する山になります。

 

比良山(ひらさん)は比良明神(ひらみょうじん)の山で、藤原鎌足を表します。

 

蓬莱(ほうらい)という文字は「蓬」(よもぎ)と「莱」(あかざ)=「藜」(あかざ)という草の名前で、薬草を煎じて飲めば不老不死になれると信じていたようです。

 

「蓬」(よもぎ)は天武天皇を表し、「藜」(あかざ)は推古天皇を表すようです。

 

端午の節句には「菖蒲」(しょうぶ)と「蓬」(よもぎ)が飾られますが、「菖蒲」は皇極天皇を表し、五月は子供の日でもありますが、母の日でもあり、皇極天皇と天武天皇の結び付きを表すようです。

 

ただし、天武天皇の影は薄れて、「宝来山」(ほうらいさん)と書かれるようになります。

 

「宝」は宝皇女(たからのひめみこ)の諱を持つ皇極天皇を意味します。

 

「蓬」(よもぎ)はハーブの王様と言われ、老化予防、冷え性、貧血など様々な健康効果があるようです。

 

「蓬」に火を付けると「お灸」(おきゅう)=「お九」(おきゅう)になり、九体阿弥陀如来(くたいあみだにょらい)の皇極天皇を意味します。

 

「蓬」を「餅」に練り込むと「草餅」(くさもち)になります。

 

「餅」は「鏡餅」(かがみもち)=八咫鏡(やたのかがみ)で、蘇我倉山田石川麻呂を表すようで、「草餅」は蘇我倉山田石川麻呂に吸収された天武天皇を意味するようです。

 

「草餅」は元々は、キク科の春の七草の一つの「母子草」(ははこぐさ)=「御形」(ごぎょう)が使われましたが、平安時代に「母と子を杵で突くのは縁起が良くない」と、同じキク科である「蓬」に変えられたと言われます。

 

杵を築く杵築神社(きづきじんじゃ)は出雲大社の前身で、「杵」は「木根」(きね)で、皇極天皇の子孫(春日氏)を表します。

 

仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)と呼ばれる大仙陵古墳は、堺市堺区大仙町にある日本最大の前方後円墳で、墓域面積が世界最大であるとされます。

 

堺とは「坂井」のことで、この地を「大阪」と呼びます。

 

         大阪府の旗

 

大阪府の旗は、千成瓢箪(せんなりびょうたん)をモチーフとしてデザインされています。

 

淀川の氾濫を抑える為に人柱になりそうになった茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)が川に投げ込んだ瓢箪(ひょうたん)です。

 

この瓢箪を馬印にした人物に、大阪を代表する豊臣秀吉(とよとみひでよし)がいますが、彼は、戦争に勝つ度に、瓢箪の旗を一枚づつ増やしていったとされ、ある時、織田信長(おだのぶなが)が自分の兵を眺めていると、無数に増えた数えきれない瓢箪の旗が見え、千成瓢箪(せんなりびょうたん)と呼ばれるようになりました。

 

豊臣秀吉の戦争の仕方は、既存の方法とは掛け離れていて、徳川家康(とくがわいえやす)でさえ恐れていて、生存中は手が出せなかった人物です。

 

日本史に残る戦争の天才だと言え、まさに波速(なみはや)でも沈まない舟だと言えます。

 

縄文時代に行く 3 へつづく…