蚩尤(しゆう)漢代の石刻画
今回は、地獄の鬼について話を進めたいと思います。
桃太郎の童話があります。
川に洗濯に出掛けたおばあさんが、川から流れてきた桃を拾って家に持ち帰り、桃を割ると中から男の子が出てきたという、あの話です。
本当は、川から流れてきた桃を食べた老夫婦が若返り、子供が出来たという話なのですが、子供向けに、桃から生まれたという話になったようです。
桃は、不老長寿の実で、道教のシンボルでもあります。
桃太郎のモデルは、孝霊天皇(こうれいてんのう)の第3皇子で、吉備国(きびこく)の平定に向かった吉備津彦命(きびつひこのみこと)ではないかと言われていますが、私は、地域連合体であった国家をヤマト王権に臣従させて中央集権を進めた雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が最初のモデルだと思います。
雄略天皇は、蘇我氏を象徴する天皇で、平群真鳥(へぐりのまとり)(雉)を大臣にして、大伴室屋(おおとものむろや)(犬)と、物部目(もののべのめ)(猿)を大連として、軍事力で専制王権を確立しました。
吉備国は、当時、最大の地域政権の一つであり、藤原氏と同族の百済からの渡来人の住む土地で、「塩」や「鉄」の生産地でもありました。
雄略天皇が欲しかったのは「鉄」の武器を作る製鉄の技術だったと思われます。
桃太郎の物語は、蘇我氏が、藤原氏を退治したという話を、童話にしたものだと思われます。
吉備津彦命(きびつひこのみこと)が退治したのは、温羅(うら)という鬼だと言われます。
藤原氏の前身は中臣氏(なかとみし)ですが、その前は卜部氏(うらべし)でした。
浦嶋伝説のある京都の宇良神社(うらじんじゃ)では、龍宮城に行ったとされる「浦 嶋子」(うら しまこ)という女性が御祭神で、月読命の子孫だとされています。
百済系渡来人の藤原氏が温羅(うら)で、浦島太郎のモデルだというわけです。
浦島太郎は亀を助けて竜宮城に行きますが、亀は乙姫様のモデルの推古天皇のシンボルになります。
乙姫様は不老不死で、竜宮城を訪れた浦島太郎も不老不死になります。
しかし、家族や友達が恋しくなって故郷へ帰り、玉手箱を開けて老人の姿となります。
開けてびっくり玉手箱で、現在は浦島太郎が老人になる事を知らずに玉手箱を開けたような童話になっていますが、本来の物語は、知っていて、あえて老人になる道を選んだものと思われます。
老人とは不老不死を捨てた翁(おきな)の神で、塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)を象徴するものだと思います。
塩土老翁神は「塩」の神様で、穢れを払う力を持つとされます。
伊弉諾命(いざなぎのみこと)が伊弉冉命(いざなみのみこと)と離縁して黄泉の国から帰って来て海水(塩の水)で禊(みそぎ)をしたら、天照大神、月読命、素戔嗚尊という貴い三神が生まれたという神話があるように、不老不死と決別する力があるようです。
伊勢神宮にお参りする時には、二見玉興神社(ふたみたまおきじんじゃ)の二見ヶ浦(ふたみがうら)で禊をするのが慣わしだったそうですが、これは、この三貴神が生まれた神話に由来するものだと思います。
二見ヶ浦には夫婦岩(めおといわ)と呼ばれる大小二つの岩石が水上に顔を出していて、大きい方が猿田彦大神で、小さい方が宇迦御魂大神(うかのみたまおおかみ)だとされます。
宇迦御魂大神は、豊受大神(とようけのおおかみ)の別名だとされますが、もう一人穀物神が隠されていて、大宜都比売(おおげつひめ)が本当の夫婦で、別名を天鈿女命(あめのうずめのみこと)=推古天皇と考えられます。
二見(ふたみ)というのは二つの身という意味で、「白」の豊受大神と、「赤」の大宜都比売の二つの玉を置いた場所という意味かもしれません。
そういった意味で「塩」は不老不死との決別をする意味が含まれているものと思われ、お葬式の後は「塩」を撒くのだと思われます。
それから、「塩」には推古天皇を象徴する「雪」を溶かす力や、蘇我氏を象徴する「植物」を枯らす力、そして「虫」を寄せ付けない力を持っている為に悪縁を切る象徴が「塩」だという事のようです。
天智天皇の祖神である山幸彦(やまさちひこ)は塩土老翁神の導きによって海神(わだつみのかみ)の娘の豊玉姫(とよたまひめ)と結婚して、海の力を手に入れます。
豊玉姫は八尋鰐(やひろわに)と呼ばれる巨大な鰐の神様で、瀬戸内海を縄張りとした海軍の宗像氏族(むなかたしぞく)を意味するようです。
京都府宮津市にある籠神社(このじんじゃ)で祀られる饒速日命(にぎはやひのみこと)が山幸彦で、その妃とされる市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が豊玉姫に当たり、その引き合わせをした豊受大神(とようけのおおかみ)が塩土老翁神であり、藤原氏の守護神になります。
蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れたのも藤原鎌足であり、塩土老翁神だということのようです。
塩土老翁神は白髭明神(しらひげみょうじん)とも呼ばれ、琵琶湖の西岸に連なる比良山(ひらさん)の神様として白鳳2年(674年)に天武天皇の勅旨により比良明神(ひらみょうじん)の号を賜ったとも言われます。
比良(ひら)は桓武天皇(かんむてんのう)の平家の平(たいら)=(ひら)と同じ意味を持たせてあるのだと思います。
おそらく、藤原鎌足は日本の同盟国であった百済(くだら)の人質の扶余豊璋(ふよほうしょう)であった可能性が強く、桓武天皇の生母の高野新笠(たかのにいがさ)もまた百済の渡来系氏族で、平安時代の担い手であり、天智2年(663年)の白村江(はくすきえ)の戦いで百済が唐と新羅の連合軍により滅亡し、その遺民400人余りを天智天皇が近江国の神崎郡に住まわせたとされ、百済系氏族の守護神としての意味合いもあったのだと思われます。
また、比良(ひら)は比良(ひよし)とも読め、滋賀県大津市坂本にある日吉大社(ひよしたいしゃ)に祀られる大己貴命(おおあなむじのみこと)=蘇我倉山田石川麻呂と習合する形となります。
日吉(ひよし)は日枝(ひえ)であり、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)の護法神(ごほうしん)として山王権現(さんのうごんげん)とも呼ばれます。
山王権現の使いが猿だとされる事から猿田彦大神(さるたひこおおかみ)も白髭明神として祀られる事もあるようです。
猿田彦大神の役割は、天の岩戸を開けた天鈿女命(あめのうずめのみこと)と夫婦になり、一緒にあの世に連れて行くことのようです。
天鈿女命(あめのうずめのみこと)の正体は、おそらく、天の岩戸に隠れた天照大神である推古天皇(すいこてんのう)で、岩戸から出てきた新しい天照大神は皇極天皇(こうぎょくてんのう)になります。
第三代天台座主の慈覚大師(じかくだいし)円仁(えんにん)が比叡山の鎮守である東坂本の山王社に対して、西坂本の鎮守として赤山禅院(せきざんぜんいん)を建て、道教の神である泰山府君(たいざんふくん)を勧請したものとされ、赤山明神(せきざんみょうじん/あかやまみょうじん)と呼ばれ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を表すものと思われます。
赤山禅院は「もみじ寺」とも呼ばれ、七福神の「福禄寿(ふくろくじゅ)のお寺」としても有名です。
「福禄寿」は藤原鎌足を表し、中国の伝説では黄帝が蚩尤(しゆう)を倒した時の血で楓(かえで)が真っ赤に染まったとされ、紅葉(もみじ)は蚩尤(しゆう)のシンボルでもあり、同じく「福禄寿」のお寺とされる藤原鎌足の談山神社(たんざんじんじゃ)も紅葉のお寺として有名です。
赤山明神の逸話で、浄土真宗を開いた親鸞(しんらん)が比叡山で修業していた頃に赤山禅院で不思議な女性と出会ったと伝えられます。
年始の所用を済ませ、山に帰ろうとした所、美しい女性に声を掛けられ、一緒に山に連れて行って欲しいと頼まれます。
伝教大師(でんぎょうだいし)最澄(さいちょう)により女人禁制の山だったので、親鸞は断り、女性が諦めると思いきや、意外な言葉を発したといいます。
「伝教大師ほどのお方が、一切衆生 悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)の経文を読まれた事がなかったのでしょうか」
驚く親鸞に、女性はさらにこう言ったといいます。
「この山に鳥や獣のメスはいないのでしょうか」
「汚れたメスが入ると山が汚れると言われるならば、この山はすでに汚れているのではないでしょうか」
「仏教では人間も牛も豚も、犬、猫、虫けらに至るまで、全ての生命は平等だと言われるのに人間の女性だけが汚れているのでしょうか」
この質問に親鸞は何も答える事が出来なかったと言います。
親鸞が後に新しい宗派を築くきっかけとなったのが、この女性との出会いだったと言われ、赤山明神の化身だったのではないかという話です。
「一切衆生 悉有仏性」は、全ての人々に仏となる素質の「仏性」(ぶっしょう)が備わっているという『大般涅槃経』(だいはつねはんきょう)に書かれている一文です。
比叡山の縁起にこんな話があるそうです。
志賀の浦のほとりで釣り糸を垂れる老翁がおり、釈尊が「そなたがこの土地の主なら、仏法流布の聖地とする為に私にこの山を譲れ」と交渉します。
「この地が仏法の聖地となったならば私の釣りをする場所がなくなります」と老翁は拒否します。
釈尊は諦めて浄土に帰ろうとした時に東方から浄瑠璃(じょうるり)世界の主である薬師如来(やくしにょらい)が現れて、「どうぞ、この地に仏法を広めてください」と言い、自分が老翁より以前からのこの地の主だが、老翁はそれを知らないのだと釈尊に伝えたと言います。
こうして比叡山は仏法流布の聖地となったという話です。
この薬師如来(やくしにょらい)とは天武天皇(てんむてんのう)の事で龍田明神(たつたみょうじん)とも呼ばれ、風神であり、鶏をお使いとして赤山明神=天鈿女命(あめのうずめのみこと)と同神と思われます。
鶴亀を従える福禄寿ですが、亀は推古天皇で、鶴はその上に乗る藤原氏で、両者を結び付ける意味があるのかもしれません。
子孫繁栄の福星(鶴)、財産の禄星(鹿)、健康長寿の寿星(桃)の三つの星が一つになったもので、素戔嗚尊の後継者の宗像三女神を象徴する意味もあるようです。
老翁は白髭明神の事で猿田彦大神であり、天狗=藤原鎌足を意味します。
七福神の寿老人(じゅろうじん)は「桃」の推古天皇に当たるようで、菊理媛命(きくりひめのみこと)や、天細女命(あめのうずめのみこと)など色々な名前があり、道教の神様として福禄寿とセットになるようです。
伊勢の二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩(めおといわ)と同じ形になります。
殷(いん)を滅ぼした周(しゅう)の太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)の釣り好きな老人がモデルであり、鯛が「魚」編に「周」と書かれるのも、物部守屋(八岐大蛇)を意味する恵比寿尊が鯛を抱えているのも、海幸彦の釣り針が鯛の口の中にあったのも、全て白髭明神である藤原鎌足が導きをした意味が隠されているようです。
実際に藤原鎌足は呂尚(りょしょう)の六韜三略(りくとうさんりゃく)の兵法書を空で読める程、熟知していたと言われます。
翁の謎の台詞「とうとうたらり」は水が滔々(とうとう)と垂れる垂水(たるみ)を意味し、推古天皇の別名である湍津姫(たぎつひめ)の「瀧」(たき)を統合する意味があるものと思われます。
そして、もう一つは水に垂らした釣りの糸です。
「鯛」は豊受大神の使いで、それを手に入れる為に罠を仕掛けるわけです。
八幡神(はちまんしん)の応神天皇の母親の神功皇后(じんぐうこうごう)の名前は、「息長帯姫」(おきながたらしひめ)と言い、「翁が垂らしたお姫様」を意味するようです。
この場合の翁は、景行(けいこう)・成務(せいむ)・仲哀(ちゅうあい)・応神(おうじん)・仁徳(にんとく)の5代の天皇に仕え、神功皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)にも従軍したとされる推定300歳という仙人のような年齢の武内宿禰(たけうちすくね)という参謀です。
おそらく、武内宿禰も、白髭明神であり、住吉明神であり、塩土老翁神であり、藤原鎌足の別名だと考えられます。
武内宿禰の9人の子供は九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)を意味し、推古天皇の氏族を9氏族に分けたものと私は思います。
神功皇后のモデルは皇極天皇であり、春日大社の巨勢姫(こせひめ)であり、宗像三女神で豊玉姫(とよたまひめ)という八尋鰐(やひろわに)であり、法隆寺(ほうりゅうじ)で毘沙門天(びしゃもんてん)の代わりに祀られる多聞天(たもんてん)クベーラになります。
巨勢(こせ)は居世(こせ)とも書かれ、伊勢(いせ)の居世(いせ)でもあり、伊勢神宮の内宮の天照大神になり、宗像三女神で、物部氏の大物主命(おおものぬしのみこと)を中心に添える三輪(みわ)の巳(み)であり、三角形の「蛇」の鱗紋(うろこもん)の「三」になります。
余談ですが山や物部氏を表す「三輪」(みわ)という言葉は、第38代天皇の天智天皇(てんちてんのう)の「38」(みわ)から作られた言葉かもしれません。
反対に海や蘇我氏を表す「嶋」(しま)という言葉は、第40代天皇の天武天皇(てんんむてんのう)の「40」(しま)から作られた言葉かもしれません。
巨勢姫を表す皇極天皇は、第35代天皇で巫女(みこ)を表す「35」(みこ)で、一度退位して再び即位する重祚(ちょうそ)をしたのが第37代天皇の斉明天皇(さいめいてんのう)なので「37」(みな)は6月を表す水無月(みなづき)の「水無」(みな)で、「水」が「去」る仏教の「法」(ほう)を表しているのかもしれません。
「法」は法隆寺(ほうりゅうじ)の「法」で、「諸行無常」(しょぎょうむじょう)、「諸法無我」(しょほうむが)、「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)の「三法印」(さんぼういん)を表します。
やはり、皇極天皇には宗像三女神の「三」という数字が付き物で、三つの名前の「三名」(みな)が根底にあるのかもしれません。
それから、天武天皇を意味する諏訪大社(すわたいしゃ)の建御名方神(たけみなかたのかみ)は皇極天皇の「御名」(みな)を建てた片方の神様という意味かもしれません。
「御名」(みな)はキリスト教にとって特別な意味を持つもののようです。
「御名」(みな)は持ち主の人格を表すと共に、ご自身と同義とされ、むやみに神の名前を唱えてはならないとされます。
その為、名前を知る事は、その人格を支配する事となり、諱(いみな)として本名は隠され、同じ神様でも複数の名前が存在するようになります。
神道では岐阜県高山市にある水無神社(みなしじんじゃ)があり、皇極天皇を意味する御歳大神(みとしおおかみ)を主祭神に15柱の神様を祀り、「皆」(みな)を表しているようです。
このように天皇の即位した数字は、とても偶然とは思えない程、神話の意味と合っていて、おそらく、その数字に合わせて日本語が作られてきたのではないかと思われます。
皇極天皇を表す巨勢氏は武内宿禰の9人の子供の第2子で、富の小川(とみのおがわ)の意祁都比売(おけつひめ)=物部氏に嫁いだ小月氏(しょうげっし)の氏族のようです。
第1子である波多氏(はたし)は推古天皇の秦氏であり、大宜都比売(おおげつひめ)=大月氏(だいげっし)の氏族のようです。
元々、推古天皇は天の岩戸に隠れた天照大神で、甲羅の中に隠れた「亀」を象徴し、亀甲紋の六角形の「六」になります。
皇極天皇の「蛇」の「三」と、推古天皇の「亀」の「六」で、「亀」に「蛇」が巻き付いた「玄武」(げんぶ)の「三六」(みろく)=秦氏の弓の「弥」(み)と蘇我氏の馬の「勒」(ろく)の弥勒(みろく)菩薩を意味するようです。
この「六」という漢字を「三」つの丸いフォルムで包んでしまった紋が「州浜紋」(すはまもん)で、河口に出来る三角州を表したものだとされ、蓬莱山や竜宮城など不老不死を表現した吉祥の紋だとされます。
藤原姓小山氏の代表的な家紋とされますが、八田氏と血縁関係があり、波多氏の血が入った氏族なのかもしれません。
実際、州浜紋を神紋とする神社では蛇と亀は神のお使いだとされ、決して殺してはならないとされます。
州浜紋
武内宿禰の別名である高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)の「高良」(こうら)も「亀」の「甲羅」(こうら)を表しているものと思われます。
「玉垂」(たまたれ)は「赤玉」と、「白玉」の二つの玉を垂らして干満の潮の満ち引きを支配する神様だとされ、干満によって出来た「州浜」(すはま)を表しているのかもしれません。
「赤玉」は天照大神であり豊玉姫の満潮(まんちょう)を表し、「白玉」は豊受大神であり玉依姫の干潮(かんちょう)を表すようです。
この二人の女神によって神武天皇(じんむてんのう)という天皇家が誕生します。
中国の寿老人(じゅろうじん)は道教(どうきょう)の始祖である老子(ろうし)がモデルとされ、白髭明神など「白」を連想しますが、玄鹿(げんろく)と呼ばれる黒い鹿を連れているとされます。
「鹿」(ろく)も「六」を表し、玄武と同じ「黒」を表す「玄」(げん)が付くので猿田彦大神と夫婦となった天鈿女命(あめのうずめのみこと)=推古天皇を「黒い六」として表しているのかもしれません。
一方、福禄寿(ふくろくじゅ)の方は「禄」(ろく)が給与などの金銭を意味する言葉なので、こちらは財宝の神様である弁財天(べんざいてん)=皇極天皇の「赤」を意味するのかもしれません。
寿老人と福禄寿は本来は同じ道教の神様だとも言われますが、七福神では別の神様として扱われます。
奈良の大和七福八宝めぐりでは、福禄寿が藤原鎌足を祀る「赤」の紅葉が有名な談山神社(たんざんじんじゃ)だとされ、寿老人は推古天皇を表す久米寺(くめでら)となっており、推古天皇の額田部氏(ぬかたべし)は猪名公高見(威奈鏡公)の氏族で藤原氏によって祭祀の役割を交代する忌部氏(いんべし)に当たるようです。
私は、藤原不比等(ふじわらふひと)と藤原鎌足は血縁関係がなく、藤原不比等が実質の藤原氏の祖になりますが、実の父が鎌足ではなく天智天皇で、藤原氏の守護神を祀る春日大社(かすがたいしゃ)は不比等の母親の鏡王女(かがみのおおきみ)を表す神社ではないかと思います。
藤原鎌足の方は猿田彦大神となって、翁猿楽(おきなさるがく)として、平安時代より春日大社で演じられる呪師走り(じゅしばしり)を初め、日本の伝統芸能の元祖となります。
日本の伝統芸能は神社における縁起を重要視する為、藤原氏と切っても切れない関係となっていきます。
密教、道教、神道が複雑に絡み合った庚申信仰(こうしんしんこう)の本尊である青面金剛明王(しょうめんこんごうみょうおう)は皇極天皇(宗像三女神)を象徴する蔵王権現(ざおうごんげん)であり、鶏と猿を下部(しもべ)とします。
安倍晴明(あべのせいめい)などの阿倍氏(あべし)は孝元天皇の皇子の大彦命(おおひこのみこと)を祖とする氏族ですが、道教の呪術体系として発展した陰陽道(おんみょうどう)の第一人者として知られます。
官学の教科であった天台宗の仏教とは離れ、陰陽道は民間信仰と繋がりが深く、豊受大神のお稲荷信仰の真言宗(しんごんしゅう)の密教が民間を導く役割を担います。
安倍晴明の母親が信太森(しのだのもり)の葛葉(くずのは)という白狐だったとされるのも信太森葛葉稲荷神社(しのだのもりくずのはいなりじんじゃ)を指し、九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)の末裔を意味するのかもしれません。
大彦命は大伴氏を表し、百済と結び付きの強かった豊受大神の氏族と考えられます。
桃をシンボルとする道教は、中国で生れた宗教で、朝鮮半島では、新羅が早い段階で受け入れ、次いで高句麗が唐の攻略から受け入れましたが、百済は、仏教を選んだ為、道教は拒否しました。
そういった背景もあり、百済は、日本と手を結ぶことになったのかもしれません。
道教の影響で、節分というものが生まれましたが、節分に柊(ひいらぎ)の枝に、鰯(いわし)の頭を刺した柊鰯(ひいらぎいわし)というものを、魔除けとして玄関に飾る風習があります。
永遠の命を望んだ秦氏を醜い「岩」に例えた磐長姫(いわながひめ)=推古天皇から、「岩の死」(いわのし)を意味する「鰯」(いわし)を生贄にしているという事かもしれません。
磐長姫(いわながひめ)には妹に、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)という「桜」の女神がいて、こちらは皇極天皇を表すようです。
西洋人は食用に実が沢山、出来るように「桜」を品種改良し、サクランボの出来る西洋実桜(せいようみざくら)を作りました。
国内のブランドである佐藤錦(さとうにしき)、高砂(たかさご)、ナポレオンなど、みんなこの品種から作られています。
それに対して日本では、「実」より、観賞用の「花」に重きを置き、「接ぎ木」による品種改良が行われました。
「実利」(実)より「名誉」(花)を日本人は好むというわけです。
賀茂重保(かものしげやす)が編集した「月詣和歌集」(つきもうでわかしゅう)によると平経盛(たいらのつねもり)が八重桜を「接ぎ木」する為に他家に所望した事が記されていて、平安時代には既に「桜」の「接ぎ木」が行われていた事が分かります。
「桜」は人間が「接ぎ木」(つぎき)して生まれますが、一代限りで終わり子供を残せません。
吉野に自生する「山桜」(やまざくら)と違い「接ぎ木」を行って「花」の美しさを追い求めた「里桜」(さとざくら)は、「染井吉野」(ソメイヨシノ)を筆頭に、「実」をつけにくく、人の手を介さないと生存する事の出来ない品種だと言えます。
平野神社(ひらのじんじゃ)で祀られる高野新笠(たかのにいがさ)の祖神とされる今木神(いまきのかみ)は、「今だけの木」である「桜」を意味し、「桜」の「花」がご神紋になります。
一代限りとはいえ、人間が「接ぎ木」し続ける事で、春になれば華やかな美を「桜」は楽しませてくれます。
不老不死でなくとも、子供を産む=「苗木を接ぎ木し続ける」という事で「桜」を楽しむ事が出来るというわけです。
これは神功皇后が応神天皇を産んだ帯を垂らした帯解(おびとけ)の安産祈願を意味し、春日大社が子孫繁栄の子供の守り神とされる理由だと思います。
日本の天皇家は磐長姫(いわながひめ)の「不老不死」より、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の「美」を選び、世代交代をするという事を選んだようです。
「長柄(ながら)の人柱」の言い伝えでは、人柱の犠牲になったのが垂水(現在の吹田)に住む巌氏(いわし)という長者だったとされ、大阪市淀川区東三国にある「大願寺」の北側の境内地に巌氏碑と呼ばれる石碑が建っています。
後、節分で「鰯」(いわし)=「磐死」(いわし)の頭を「柊」(ひいらぎ)の枝に刺すのは、「柊」の棘(とげ)や、「鰯」の骨が、鬼が苦手とする「針」を想像させるからだと思います。
一寸法師が、針の剣で、鬼を刺して退治するのも同じ理由だと思います。
また、玄関など「道」(みち)に面した場所に「鰯の頭」を飾るのにも理由があります。
道教は、「道」(タオ)の教えですが、中国の殷(いん)の時代に生まれました。
この殷(いん)に紂王(ちゅうおう)と呼ばれる暴虐な政治を行なった王様がいました。
この殷(いん)のあった遺跡を殷墟(いんきょ)と呼びますが、ここに、祭祀坑と呼ばれる約250個のお墓が見つかっていて、中には8~10体の首の無い遺体が見つかっています。
甲骨文字の解読から、この遺体は、祭祀で生贄(いけにえ)にされた異民族で、主に殷の西北に位置する羌(きょう)という国の民族が捕らえられ、首を刎ねられたと書かれています。
刎ねられた「首」は、見せしめの為なのか、魔除けとして、「道」の辻に木に刺して飾られていたそうです。
「鰯の頭」は、「人間の頭」の代わりであり、「道」という漢字に「首」という字を使うのは、ここから来ています。
羌族(きょうぞく)は、現在のチベット人と同じ民族で、藤原氏の先祖である百済と同じ民族です。
殷は、蘇我氏と同じ民族で、新羅から日本に渡来した箕子朝鮮(きしちょうせん)の箕子(きし)と同じ民族だと思われます。
つまり、蘇我氏と藤原氏は、時代を超えた因縁のライバルだというわけです。
そうした異民族の恨みをかって、殷は、最後は、羌族の国の周(しゅう)によって滅ぼされてしまいます。
中国神話に登場する黄帝(こうてい)と争った炎帝神農(えんていしんのう)の子孫とされる蚩尤(しゆう)と呼ばれる神様がいます。
兵主神(ひょうずしん)とも言い、あらゆる武器を創造した神様だと言われ、その頭には、炎帝神農と同じく角が生えていたと言われます。
この蚩尤(しゆう)を信仰していたのが羌族(きょうぞく)で、製鉄技術に長けていたようです。
もともとは、シルクロードを渡って来たヒッタイト人で、そのルーツはバビロニアのアッカド人だと思われます。
また、殷墟では、殉教(じゅんきょう)も盛大に行なわれていたようで、二頭立ての戦車は6台、兵士850人、一個師団が戦いの陣形のまま生き埋めにされていました。
垂仁天皇(すいにんてんのう)が、狭穂姫(さほひめ)が亡くなった後に皇后にしたとされる日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の際に、野見宿禰(のみのすくね)の進言を受け入れ、殉死をやめて、代わりに埴輪を埋めるようになったとする話も、殷のこの風習への嫌悪感から来ているように思います。
もちろん、箕子(きし)は、殷の出身でしたが、むしろ紂王(ちゅうおう)の暴政を諌めて疎まれた方で、生贄や、殉死を推奨していたかどうかは疑問が残ります。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)に退治されたとされる八岐大蛇(やまたのおろち)が、生贄を求めていたという神話は、未開の地では、ミジャグジという蛇の神様が祀られていて、そういった生贄の風習があって、蘇我氏が物部氏を悪役にする為に、物部氏をそれに当てはめたのだと思われます。
しかし、大化の改新で、蘇我氏は悪役にした物部氏と習合させられて、結局、同じ出雲大社で祀られることとなります。
建御名方神(たけみなかたのかみ)という神様がいます。
大国主命の息子とされますが、この神様は蘇我氏の残党を束ねた天武天皇を象徴する神様と思われます。
建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀る諏訪大社(すわたいしゃ)では、75頭の鹿の頭を神前に供える御頭祭(おんとうさい)と呼ばれる生贄の儀式が行われていました。
おそらく、生贄を望んでいたのは蘇我氏だということを宣伝するために、そういう儀式が行われたのではないかと私は思います。
現在は、生きた鹿ではなく、剥製を使うように変わっているので、幾分かはショックは和らぎますが、それでも鹿の頭が切り取られて並んだ姿にはインパクトは大きいです。
この神社では、兎を串刺しにしたり、カエルを串刺しにしたりして神前に捧げる神事もあり、かなりショックを受けます。
御頭祭は、毎年4月15日に行なわれているようですが、かつては3月の酉(とり)の日に行われていたため、「酉の祭り」とも呼ばれるそうです。
それと、こちらの神社の御神体は、守屋山(もりやさん)という山そのものです。
守屋とは、八岐大蛇(やまたのおろち)にされた物部守屋のことをあらわしているのだと思います。
ミジャグジと呼ばれる蛇の神様ですが、元々はアイヌ人の神様のようです。
塞の神(さいのかみ)と呼ばれる結界の神様で、石の神様だとされ、道の辻などに建てられるお地蔵さんと同一神だとされます。
そのミジャグジですが、諏訪地方では、ソソウ神や、洩矢神(モレヤ神)などと呼んで、白蛇の神様とされます。
古来、諏訪地方を統べていた神様でしたが、建御名方神(たけみなかたのかみ)がやって来て、戦いに敗れて追い出されたとされます。
この生贄を捧げる建御名方神(たけみなかたのかみ)のモデルと思われる天武天皇ですが、仏教を信仰していて肉食の禁止令を日本で初めて発令した天皇としても知られます。
つまり、生贄を求める姿とは正反対なわけです。
おそらく、蘇我氏によって物部守屋が八岐大蛇(やまたのおろち)という怪物に変えられて、生贄を望んでいたように物語が作られた事に対する復讐なのかもしれません。
諏訪大社は守屋山(もりやさん)を挟んで北の麓に本宮があり、御神体は守屋山ではなく宮山(御山)とされます。
これは宗像三女神の三(御)山を意味するもの思われますが、物部守屋を象徴する守屋山を一緒に拝む形となるようです。
不思議なのは、旧約聖書の「創世記」にも、同じようなモリヤという地名や生贄に関する記述があることです。
「創世記」では神がアブラハムの信仰心を確かめる為に、息子イサクをモリヤの地で、生贄に捧げることを命じるというものです。
そして、信仰を証明して、最後は、人間の生贄の代わりに、角のある雄羊を生贄とするようになったという話です。
「犠牲」という漢字には牛偏がついているのは、殷王朝時代に、農耕の祭祀で、牛が生贄に選ばれた為だそうです。
どちらも角のある動物です。
蚩尤(しゆう)を信仰していた羌族(きょうぞく)を鬼として生贄にした「道」という漢字を思い出します。
道教は殷の時代より始まり、日本では猿田彦大神がそれを受け継ぎました。
角のある動物は食べても良いというユダヤ人の倫理観は、金の仔牛の像を拝んだヨセフへの嫌悪感からくるのかもしれません。
ヨセフは日本では十一面観音となり、第11代天皇の垂仁天皇(すいにんてんのう)と呼ばれます。
豊受大神の別名でもあり、殉葬を禁止し、人柱(生贄)の代わりに埴輪を埋めた「仁」(じん)を垂れた天皇になります。
「仁」は儒教の核である「人を思いやる心」です。
「生贄」を終らした儒教の天皇です。
雄羊も、牛も、命があるので、現在の感覚からすると少し可哀想な気もしますが、スーパーで並んでいるお肉も、直接、殺していないので罪の意識は少ないですが、他の命の犠牲により人間の命が成り立っていることには変わりありません。
日本では、仏教の影響により、明治までは肉を食べていませんでした。
ただし、猪を牡丹(ぼたん)、馬を桜(さくら)、鹿を紅葉(もみじ)、鶏を柏(かしわ)と呼んで、隠れて食べていた人もいたようです。
鶏は龍田明神のお使いなので禁止されていたのですが、それ以外の鳥は食用が黙認されていたようで、兎を鳥のように一羽、二羽と数えるのも食用にされていたなごりのようです。
しかし、この肉食禁止令のお陰で、タンパク質を補うために、魚食の文化が発達しました。
魚食文化は命を犠牲にしていることには変わりはないのですが、日本人の健康面では大きく変わる出来事でした。
日本人が長寿なのも、魚を食べる事と関係が深いように思われます。
話は変わりますが、土用の丑(どようのうし)の日に鰻を食べる風習があります。
鰻は、昔は初瀬川(三輪川)で獲れたとされ、その姿が蛇に似ていることから、大物主命の使いだとされます。
丑(牛)の日にそれを食べるのは、牛が素戔嗚尊(すさのおのみこと)を表し、八岐大蛇(やまたのおろち)=大物主命を退治する神話で、そういった風習が出来たのかもしれません。
貴船神社で始まったとされる「丑刻参り」(うしのこくまいり)の丑(牛)も、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を表しています。
それから鬼門とされる丑寅(うしとら)の方角とは丑(牛)と寅(虎)が一緒になることが不吉だという意味で、中国の風水には無い日本オリジナルの風水です。
牛は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の蘇我氏を表し、虎は、白虎の秦氏を表しているものと思われますが、蘇我氏の残党を率いた天武天皇を表しているものと思われます。
奈良の信貴山にある朝護孫子寺の虎も、西を守護する白虎という意味と、その麓にある龍田大社の龍田明神を表しているのかもしれません。
つまり、丑寅は、蘇我氏と天武天皇が結び付いた事を恐れたものと思われます。
鬼が、虎のパンツを穿き、牛のような角を生やしているのも同じ理由です。
蘇我氏は治水工事の得意な秦氏を使い、全国の川に橋を架けました。
その中でも苦労したのが、川の流れの激しい宇治川です。
氾濫する川は、八岐大蛇(やまたのおろち)に例えられました。
仁徳天皇(にんとくてんのう)が、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と共謀して、大山守皇子(おおやまもりおうじ)を宇治川に沈めて殺害したという話も、聖徳太子(しょうとくたいし)が、秦河勝(はたのかわかつ)と共謀して、物部守屋(もののべもりや)を滅ぼしたのと同じ構図のようです。
川に沈められたというのは、八岐大蛇(やまたのおろち)にされてしまったということです。
しかし、その後、天智天皇と藤原氏によって物部守屋は閻魔大王(えんまだいおう)へと変わります。
泰山府君(たいざんふくん)や荼枳尼天(だきにてん)や鬼などの眷属を従えて冥界の王として君臨します。
地蔵菩薩もまた、閻魔大王を同一神とします。
閻魔(ヤマ)