三つ巴紋

 

天太玉命(あめのふとだまのみこと)と呼ばれる神様がいます。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴して天降った五伴緒の一人で、「太」(うず)の氏族である忌部氏(いんべし)の祖とされる神様で、弟が天忍日命(あめのおしひのみこと)で、「犬」の氏族である大伴氏の祖になります。

 

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、古事記のh

 

「太」(うず)は天細女命(あめのうずめのみこと)と夫婦になった猿田彦大神の「猿」であり、「太」と「犬」の関係は「猿」=「天照大神」と「狗」(犬)=「豊受大神」の関係になります。

 

天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、蘇我氏に仕えて、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作っていた秦氏の氏族です。

 

勾玉(まがたま)の形は、「渦」(うず)の形を表し、その形を表したものが「巴」(ともえ)という漢字で、「太」(うず)と同じ意味があります。

 

八幡神社(やはたじんじゃ)の神紋は、この「巴」が三つ、ぐるぐると回転する図柄になっています。

 

私事ですが、私の母方の家紋も「三つ巴紋」で、九州の福岡県宗像市宗像郡の出身で大蔵氏から分れた氏族になります。

 

大蔵氏は、坂上氏や丹波氏と共に高祖劉邦(こうそりゅうほう)の漢帝国を西暦25年に再興した劉秀(光武帝)から九代目の後漢霊帝(ごかんれいてい)の末裔という話もあり、高祖劉邦の子孫とされる王仁吉師(わにきし)の和邇氏とは同じ民族になります。

 

大蔵氏、坂上氏、丹波氏は和邇氏に秦氏の女性を嫁がせた氏族ではないかと私は考えています。

 

物部氏が滅んだ後は、和邇氏が物部氏の後を継ぎ、和邇氏から分れた息長氏の出身である皇極天皇がその代表と言えます。

 

忌部氏は現在の徳島県に当たる阿波国(あわのくに)の出身です。

 

蘇我氏の信仰した素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、「鳴く」ことが強調された神様なので、阿波国の「鳴門(なると)の渦潮(うずしお)」も、勾玉と関係があるのかもしれません。

 

自然界での渦の形は、「黄金比」(おうごんひ)という比率の形になります。

 

「黄金比」とは、縦と横の長さの比率が1対1.618となっている長方形で、人はこの比率を見ると美しいと感じるそうで、身近なところでは、名刺の大きさが「黄金比」になっているそうです。

 

「黄金比」で構成された長方形の中に、小さい「黄金比」で構成された長方形を縦に入れ込むと、1対1の正方形と1対1.618の小さな「黄金比」が現れ、これを黄金分割と言います。

 

黄金分割を繰り返していくと、無限小まで同じパタターンがフラクタル図形のように繰り返され、角を結ぶように曲線でつなげて行くと、アンモナイトのような対数螺旋が出来上がります。

 

渦を巻く羊の角が、黄金比を表し、「大」(おお)きい「羊」と書いて「美」(び)という漢字になるのも偶然ではないようです。

 

私達がよく知っている図形では、五芒星(ごぼうせい)と呼ばれる星型(鳥型)の図形が、「黄金比」で構成された図形だとされ、1対1.618を分数に表すと8/5となり、5対8という数字が重要な意味を持ちます。

 

勾玉の形は、この「黄金比」を直感的に「美」と感じた古代の人々が偶然に作り出した形なのかもしれません。

 

西洋が「黄金比」を重要視するのに対して、日本では、「白銀比」(はくぎんひ)と呼ばれる比率が主流となり、聖徳太子が建てたとされる法隆寺などが、「白銀比」を使用した建築とされます。

 

「白銀比」の比率は、1対1.414で、コピー用紙や、畳が白銀比で作られていて、正方形を二つに割った直角二等辺三角形の辺の長さが、この比率になるそうです。

 

丸太(円)の中に内接する角材(正方形)を二つに分けた形で、丸太から木材を無駄なく取り出そうとすると、白銀比がもっとも適しているそうです。

 

綺麗(長方形)よりも、可愛い(正方形)ことに人気がある日本好みの比率とされます。

 

「白銀比」の整数比が5対7で、俳句などに使用される五七五は、直角二等辺三角形の三辺の長さと同じ比率になるそうです。

 

黄金比について詳しく書かれている方がおられたので、一緒に載せておきます。

 

黄金比

 

  

              鳴門市章                                                              鳴門  © Hellbuny

 

記紀 によると、天地開闢(てんちかいびゃく)で生まれた10人の神様のうち、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と、伊邪那美命(いざなみのみこと)の2神が、天沼矛(あめのぬぼこ)と呼ばれる矛で海をかき混ぜて、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)が出来たとされます。

 

天沼矛(あめのぬぼこ)は、天之瓊矛(あまのぬほこ)とも書き、「瓊」は玉のこととされ、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)や、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)にも文字が使われているので、翡翠(ひすい)を表し、翡翠(ひすい)の勾玉で飾られた矛という意味なのかもしれません。

 

この淤能碁呂島(おのごろじま)で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と、伊邪那美命(いざなみのみこと)の2神は結婚をして、最初に生まれたのが水蛭子(ひるこ)という神様です。

 

不具の子であった為に葦舟に乗せて海に流されてしまいます。

 

この流された水蛭子(ひるこ)は、兵庫県の西宮にたどり着いたとされ、恵比寿(えびす)さんとして祀られています。

 

次に生まれたのがアハシマという島で、この2神は子の数には入れないと記されているので、島と呼べる程、立派なものではなく、海の泡(あわ)として消えたという事かもしれません。

 

蘇我氏は、元々、粟(あわ)や、島(しま)と関係が深いので、アハシマは、素戔嗚尊(すさのおのみこと)という意味なのかもしれません。

 

この淤能碁呂島(おのごろじま)の場所については諸説がありますが、一つには淡路島の南海上の沼島(ぬしま)ではないかと言われています。

 

この沼島は、上空から見ると勾玉の形をしていて、上立神岩(かみたてがみいわ)と呼ばれる矛先の形をした珍しい形をした岩が存在します。

 

                © Pinqui

               上立神岩

 

また、和歌山県と、淡路島の間の紀淡海峡(きたんかいきょう)には友ヶ島と呼ばれる島々があり、その中の一つの沖ノ島も、勾玉の形に似ていて、この島だという説もあります。

 

友ヶ島は、和歌山県和歌山市の「加太」(かだ)に属する島で、「加太」(かだ)は「太(うず)を加える」と書きます。

 

友ヶ島には、少彦名命(すくなひこなのみこと)と、大己貴命(おおあなむじのみこと)が祀られていたそうですが、仁徳天皇が、離島では不自由だろうという理由で、和歌山県の内陸の加太に淡嶋神社(あわしまじんじゃ)を遷座させたとされます。

 

少彦名命は、アハシマで、大己貴命(おおあなむじのみこと)が水蛭子(ひるこ)を表しているようです。

 

大己貴(おおあなむじ)は、「大きい己(穴)が貴い」と書き、「貴」(むじ)は中華思想でいう東夷を表す貉(むじな)のことかもしれません。

 

貉(むじな)とは穴熊のことで、竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)に住む縄文人を指します。

 

大己貴(おおあなむじ)の「己」(あな)は、大物主命が渦を巻いた「巳」(み)に穴が開いたことを表しているのかもしれません。

 

穴というのは、大物主命と、素戔嗚尊(すさのおのみこと)を区切る壁(境界線)の穴だと思われます。

 

大己貴(おおあなむじ)が、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の試練に耐えて、婿として認められて大国主命という名前を貰います。

 

これは、蘇我馬子(そがのうまこ)から推古天皇(すいこてんのう)の婿として認められた敏達天皇(びだつてんのう)を表すようで、「国」(くに)という漢字は、穴が閉じて「口」(大物主命=饒速日命)の中に閉じ込められた「玉」(素戔嗚尊=瓊瓊杵尊)を表すようです。

 

穴が開いたり、渦を巻いたりする前の大物主命の原型は蛇を表す「乙」(おつ)という字になります。

 

「己」(おのれ)は、「同」(おな)じと同じ意味を持ち、似たような漢字に「已」(い)という漢字があります。

 

穴を開ける事を途中で止めた「已」(や)めるという意味や、既に穴が開いていることを表す「已」(すでに)という意味があります。

 

「已」(い)は「亥」(い)と同じく「猪」(いのしし)の事で蘇我氏系の女王卑弥呼を表していて、仏教では生滅滅已(しょうめつめつい)と呼び、生と死を永遠に繰り返す循環から解き放たれる涅槃(悟り)を表す文字でもあります。

 

さて、少彦名命(すくなひこなのみこと)と、大己貴命(おおあなむじのみこと)が祀られていた友ヶ島の沖ノ島ですが、おそらく、沖津島姫(おきつしまひめ)を象徴しているのだと思われます。

 

沖津島姫(おきつしまひめ)は、別名を多紀理毘売(たぎりびめ)と言い、「田」の中央を区切ったの「十」を表す結界の女神で、白い霧(きり)を表し、春日(かすが)を表す霞(かすみ)の女神だとされます。

 

もう一つの別名を、豊受大神(とようけのおおかみ)とも言います。

 

「十」は、三本足の「木」から物部氏と蘇我氏の二本の足を取り除いた秦氏を表す漢字で、「もぎき」とも読みます。

 

淡嶋神社(あわしまじんじゃ)では、市杵島姫(いちきしまひめ)を象徴する神功皇后が祀られていて、市杵島姫は、沖津島姫(おきつしまひめ)と、多岐都姫(たぎつひめ)と共に、宗像三女神として、三位一体の女神なので、彼女が少彦名命(すくなひこなのみこと)と、大己貴命(おおあなむじのみこと)に加えられた三つ巴の「太」(うず)のようです。

 

ちなみに、多岐都姫(たぎつひめ)とは女王卑弥呼(推古天皇)のことで、滝(たき)の女神とされます。

 

少彦名命は土師氏と蘇我氏で素戔嗚尊(すさのおのみこと)を表し、大国主命は物部氏で天照大神を表し、神功皇后が秦氏で、月読命(つくよみのみこと)を表します。

 

                             友ヶ島の沖ノ島

 

「巴」の話に戻ろうと思いますが、「巴」(ともえ)から「、」を抜くと、「巳」(み)という漢字になり、大物主命の蛇を表します。

 

蛇は蛇でも、渦を巻いている蛇です。

 

この勾玉を図柄に表した紋を「巴紋」(ともえもん)と呼び、水が渦を巻いている様子を表します。

 

「太鼓」(たいこ)という文字にも、「太」(うず)という字が使われていますが、これは「太」(うず)を「鼓む」(包む)という意味で、臼のような大きな木材の胴の部分に「牛」の皮を張った楽器を指します。

 

「牛」の皮を叩いて「鳴らす」ので、蘇我氏を叩くという意味になるのかもしれません。

 

「太鼓」(たいこ)の音が「雷」(かみなり)の音に似ていることから、皮部分には、八幡神社の神紋を表す「三つ巴紋」が描かれます。

 

「雷」(かみなり)は「神鳴り」(かみなり)で荒神(天神)を表すようです。

 

八幡(やはた)は、八田と同じ、大物主命に秦氏を加えた「太」(うず)のことです。

 

中国医学や医者の祖とされる「華蛇」(かだ)という人物がいます。

 

「加太」(かだ)という地名も、道教を意識して、ここから付けた名前かもしれません。

 

「巴」に似たマークで、道教のシンボルに太極(たいきょく)というマークがあります。

 

            太極図

 

陰と陽といった性質の異なるものが渦を巻いている図柄で、中国では、この勾玉のような黒と白の「巴」を、魚だとして、陰陽魚と呼び、黒が陰で、白が陽を表します。

 

陰陽魚の黒は白を飲み込もうとして、白は黒を飲み込もうとして、ぐるぐる回るのですが、黒には白い目が、白には黒い目があり、どちらかが一旦は勝ったとしても、やがて、その逆の目の色に飲み込まれてしまい、永遠にその循環を繰り返すそうです。

 

永遠と聞くと、「ウロボロス」という蛇が自分の尻尾を噛んで環になっている姿を思い出します。

 

ヒンドゥー教の世界観でも、世界の始まりは蛇で、全ては生と死を永遠に繰り返す「ウロボロス」の中に世界があります。

 

           ヒンドゥー教の世界観

 

日本では、道教から伝わった季節を祝う「節分」(せつぶん)という行事があります。

 

ただ、本場の中国では、豆を撒いたり、恵方巻きに齧り付いたりはしません。

 

その為、この豆を撒くという仕草が何のために行うのか疑問に思う人もあり、稲の種まきを表していて、五穀豊穣を祈る為の行事だとか、色々と言われています。

 

「節分」(せつぶん)の本来の意味は、季節の節目を祝うものなのですが、日本では年齢の数だけ豆を食べたりして、年齢の節目も表します。

 

「1才」「2才」「3才」…と、「才」の数を増やして行き、門を固く「閉」(と)じるということです。

 

「豆撒き」(まめまき)とは、「、」(まめ)を「大」で巻くという「太」(うず)=「豆巻き」(まめまき)という意味で、具を酢飯と海苔で巻いた恵方巻きの事を、「太巻寿司」(ふとまきずし)とも呼びます。

 

米を、酢で〆(しめる)と書いて寿司(すし)です。

 

おそらく、蘇我氏が道教を信仰していたので、そのお祝いの日に、蘇我氏を閉じ込める呪(まじない)をかけているというわけです。

 

余談になりますが、握り寿司の単位を「一貫」「二貫」…と数えますが、「貫」(かん)は尺貫法の単位で、何故、握り寿司にだけ、この単位が使われるのかは謎だとされます。

 

現在は、握り寿司一個を一貫と呼んだりするお寿司屋さんも多くなっていますが、元々は、二個で一貫と呼ばれ、「二つのものを一つに貫く」という意味が含まれているようです。

 

お稲荷さんや、弘法大師空海の出身地である「讃岐」(さぬき)は、古い文献では「狭貫」(さぬき)とも記されていて、「狭井を貫く」という意味になります。

 

「讃岐」(さぬき)は現在の香川県で、日本で最も雨量が少ない土地から枯れた川が多く「枯川」(かがわ)と呼ばれ、「枯」(か)に物を貫く「槍」(やり)という意味の「香」(か)という字が当てられ、「香川」(かがわ)になりました。

 

夏王朝(かおうちょう)の末裔で、伽耶国(かやこく)から渡来した鹿(か)の氏族、秦氏を象徴する文字になります。

 

香川県は降水量が少ない為、「米」が育ちにくく、代わりに水が少なくても育つ「麦」(むぎ)の産地となり、小麦から作られる「うどん」が有名になりました。

 

「麦」(むぎ)は甲骨文字では、「來」(むぎ)という漢字でしたが、「麦踏み」と呼ばれる根の成長を促進させる作業を行うことから足を表す「夂」(ち)が加えられ「「麥」(むぎ)という字に変わり、それが簡略化されて現在の「麦」という字が生まれたようです。

 

一方、「麦」(むぎ)の古い字である「來」(むぎ)も簡略化されて「来」(き)という字になり、渡来人によって齎された「外からやって来るもの」を表す言葉となります。

 

古事記によると素戔嗚尊(すさのおのみこと)が大気都比売神(おほげつひめ)を切り殺して、その亡骸から五穀が生まれたとされ、頭から「蚕」が、目からは「稲」が、耳からは「粟」が、鼻に「小豆」、ほと(女陰)に「麦」、尻に「大豆」が生じたと記されています。

 

つまり、「豆」や「稲」以外に「麦」(むぎ)も秦氏を象徴する穀物だということです。

 

大気都比売神(おおげつひめ)は阿波国(徳島県)の「卑弥呼」(ひみこ)を象徴する神様で、伊予国(愛媛県)の愛比売(えひめ)は市杵島比売(いちきしまひめ)で「壱与」(いよ)、讃岐国(香川県)の飯依比古(いいよりひこ)は月読命(つくよみのみこと)で男神ですが「台与」(とよ)、土佐国(高知県)の建依別(たけよりわけ)」は素戔嗚尊(すさのおのみこと)を象徴しているようです。

 

土佐国には都佐(とさ)という国と波多(はた)という二つの国があったそうですが、先代旧事本紀の国造本紀によると、崇神天皇の時代に神のお告げによって天韓襲命(あまのからそのみこと)を国造に定めたと書かれていると言われます。

 

天韓襲命(あまのからそのみこと)は、事代主(ことしろぬし)の子の観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の後裔だとされ、蘇我氏が滅んだ後に物部氏の系統に変えられたようです。

 

四国を「伊予の二名の島」と言うのは、徳島県の大気都比売神(おおげつひめ)と愛媛県の愛比売(えひめ)が同じ天照大神の別名だということを指すようです。

 

大物主命を祀る三輪では、「小麦」を石臼で挽いて細い素麺(そうめん)を作り、文月(ふみつき)の七日、つまり牽牛と織姫が再会する七夕(たなばた)の日にお供えすることが風習とされました。

 

「七」は出雲族の「七姓漢人」(しちしょうかんじん)の「七」で、秦の始皇帝が神格化した北極星が天照大神で、その周りを回る柄杓の形をした北斗七星(ほくとしちせい)が「七姓漢人」(しちしょうかんじん)を表し、出雲族の王である大物主命が、「言葉の神様=文」ということから七夕にお供えする風習が出来たのかもしれません。

 

伝説によると紀元前91年(崇神天皇7年)に大物主命の五世の孫である大田子根子命(おおたこねこのみこと)が、大神神社の神主に任ぜられ、その12世孫の朝臣(あそん)狭井久佐(さいくさ)という人物の次男穀主(こくぬし)が初めて素麺を作ったと言います。

 

おそらく、穀主(こくぬし)は国主(こくぬし)で、物部氏と蘇我氏を結びつけた大国主命を象徴しているのだと思います。

 

記紀では、大物主命と、卑弥呼を表す倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が「糸」によって結ばれることが書かれていて、素麺が糸のように細く引き延ばされるのは、織姫の「絹糸」(きぬいと)を象徴する為かもしれません。

 

つまり、「麦」(むぎ)は、大物主命と天照大神を橋渡しする「狭井」(さい)=「細」(さい)を象徴する穀物だということです。

 

伝統のある三輪では、素麺は細ければ細いほど良く、細さによってランク付けがされ、極細の最高級品を「神杉」(かみすぎ)、神杉より少々太い高級品を「緖環」(おだまき)、緖環より太い高級品を「瑞垣」(みずがき)、普通の太さを「誉」(ほまれ)と呼んで区別しました。

 

しかし、現在では、各メーカーが独自に生産する素麺の方が細くなり、この区別も不明確になっているそうです。

 

杉の話(住吉大社)

 

勾玉の話に戻りますが、勾玉は、古事記では「曲玉」(まがたま)と書かれます。

 

楽曲の「曲」(きょく)も、真っ直ぐではなく、変化に富んだ旋律が魅力と言えます。

 

日本で最初に音楽が奏でられたのは、推古天皇の時代に中国南部の呉(ご)から伝えられたとされる伎楽(ぎがく)だとされます。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)が「鳴く」のは、蘇我氏が音楽を日本に伝えて、音楽を奏でるという意味も含まれているのかもしれません。

 

さて、「曲玉」の話ですが、文字通り、曲がった玉を表します。

 

現在では、「曲」(まが)るという言葉は、神罰が下る「禍」(まが)や、偽物を表す「紛」(まが)い物など、ろくな意味がないので、嫌がる人もいます。

 

「渦」(うず)や、「禍」(わざわい)に使われる「咼」という漢字は穴の開いた「臼」を表すようです。

 

豊受大神(とようけのおおかみ)の「豊」(とよ)という字は、「豆が曲がる」という意味ではなく、台の上の籠に、五穀が山のように積まれた様子を表す象形文字だとされます。

 

しかし、私は、「豆」が頭上に「曲玉」をかざした姿が本来の姿で、莫大な富を築いた秦氏を「豊」(とよ)と表したのだと思います。

 

豊受大神の神紋は、「宝珠」(ほうじゅ)です。

 

これは、しずく型(栗型)の白い「真珠」(しんじゅ)を表し、曲がっていない「真」(ま)っ直ぐな形を表します。

 

「真」(ま)は、物部氏を象徴する大口真神(おおぐちまかみ)の「真」(ま)です。

 

現在は、真珠は真円というイメージですが、昔は養殖が成功しておらず、偶然、海から取れるのはしずく型の真珠だったということです。

 

この「豊」に使われている「曲」という漢字は、左右対称で、勾玉の形ではなく、真珠の形に近く、おそらく、勾玉が、真珠に置き換わっているのだと思います。

 

あと、「曲」と似ている漢字に「由」(ゆ)という漢字があります。

 

由緒(ゆいしょ)など、物事の始まりを表す漢字ですが、水を貯める瓢箪(ひょうたん)の形を表す象形文字だとされ、女王卑弥呼を表します。

 

由緒(ゆいしょ)の「緖」(しょ)は、「玉を貫きとおした細紐」という意味があるようです。

 

「由来」(ゆらい)という漢字も、「由」(ひょうたん)と「来」(むぎ)が全ての始まりだということを表しているようで、卑弥呼と狭井神社の天神を象徴するようです。

 

また、「由来」(ゆらい)は「由来」(ゆき)とも読めますが、「雪」(ゆき)と同じ意味も含みます。

 

稲作には多量の水を必要とするので、「雪」(ゆき)が多い年は、山に降った雪解け水が豊富で、干害の心配がなく豊作が見込まれることから「雪は豊年の瑞(しるし)」と言われ、白い「幸運」(こううん)の象徴とされます。

 

「雪」(ゆき)の多い新潟県がお米の栽培に適しているのは、この為です。

 

「幸運」(こううん)の「幸」(こう)は、「幸」(ゆき)という意味と「幸」(さい)という意味の両方を含み、「狭井」(さい)を表す漢字になります。

 

聖徳太子の信任を受けていた秦河勝(はたのかわかつ)は、物部守屋(もののべもりや)を滅ぼした丁未の乱(ていびのらん)で功を立てたことから、信濃国(しなのこく)の更級郡(さらしなぐん)桑原郷に領地を貰い受け、子供の秦広国(はたのひろくに)を派遣して、ここから信濃秦氏が始まったとされます。

 

信州は、焼畑(やきはた)が多く行われた地域で、おそらく、蘇我氏が滅亡した後、秦氏は「稲」(いね)の栽培を禁止され、それ以外の粟、大豆、小豆、蕎麦、麦などの雑穀を栽培するようになったのではないかと私は思います。

 

「烏」(からす)の字が、「鳥」(とり)の字よりも、目の部分の線が一本足りないのは、目が「稲」(いね)を表すからだと思います。

 

信州は特に「蕎麦」(そば)が有名で、昔は「蕎麦」(そば)も「麦」(むぎ)の一種だと考えられていました。

 

通常、黒っぽい色をしていますが、「蕎麦」(そば)の実を石臼で挽く時に中心の部分が先に挽かれて出てくるので、その一番粉だけを使用すると、白い「蕎麦」(そば)が出来上がります。

 

これを、「更科(さらしな)そば」と言います。

 

「更」(白い)科(信濃)の蕎麦という意味です。

 

秦氏は、元々、秦の始皇帝の末裔とされ、「白虎」を象徴する「白」(しろ)を尊い色としました。

 

「畑」(はた)という字は和製漢字で、焼畑を表す「火」と「田」の組み合わせですが、元々は「畠」(はた)という字で、「白」と「田」の組み合わせでした。

 

焼畑により、土に積もった灰が白く見えることから「白」と「田」を組み合わせたのではないかと考える方もいますが、秦氏の「白」を表す「田」という意味かもしれません。

 

秦氏は元々10支族だったそうです。

 

そのうちの一つが天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖とする大伴氏で、「稲」(いね)を象徴する豊受大神を信仰する氏族です。

 

日本書紀には天忍日命(あめのおしひのみこと)が大来目命(おおくめのみこと)を率いて瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を先導して天降ったと記されています。

 

神武天皇を先導した八咫烏(やたがらす)と同じです。

 

大来目命(おおくめのみこと)が久米氏(くめし)の祖で、残りの9氏族を象徴するのだと思われます。

 

「久米」(くめ)は「来目」(くめ)で「稲」(いね)ではなく、「麦の目」を表します。

 

秦河勝は秦氏という姓を使うことを禁じられ、久米氏、春日氏、尾張氏、村山氏、佐竹氏などに分かれていきます。

 

私は、九州(きゅうしゅう)という地名も、9氏族から付いた名前ではないかと思います。

 

九州は、沖縄を入れても8県しかありませんが、旧国名では、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩という9ヶ国で出来ていたので九州と読んだそうです。

 

「九州」(きゅうしゅう)は秦氏(隼人)や、蘇我氏(熊襲)と関係の深い地域で、「九州」(くす)とも読めます。

 

神武天皇が東征する際、吉野で尾のある人が岩を押し分けて出てきて、お前は誰だと尋ねると、国津神(くにつかみ)の子の岩押別実命(いわおしわくのみこと)と答え、天津神(あまつかみ)の御子が天降ったと聞いたのでお仕えしようと思いやって来たと言います。

 

国津神とは古くから日本にいた先住民族の縄文人で、土蜘蛛(つちぐも)とも呼ばれ、出雲族を表します。

 

天津神は、皇祖神で太陽族の弥生人を指すようです。

 

岩押別実命(いわおしわくのみこと)は国栖人(くずびと)の祖とされ、「国栖」(くず)とは葛城王朝(かつらぎおうちょう)の「葛」(くず)であり、「国栖の木」(くすのき)の「楠」(くす)であり、久米(くめ)と同じく9ヶ国の秦氏を表すようです。

 

吉野は植物の葛(くず)も有名で、根を用いて食材や、葛根湯(かっこんとう)などの漢方薬が作られます。

 

中国最古の薬物書の「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)にも薬としての葛(くず)の効用が書かれていて、それが日本に伝わった可能性もあります。

 

国栖人(くずびと)が葛(くず)の効用(利益)を知っていて、葛利(くずり)=薬(くすり)として広めたのかもしれません。

 

長野県に戸隠神社(とがくしじんじゃ)という神社があります。

 

素戔嗚尊の乱暴により、天照大神が天岩戸に隠れた事を象徴する神社で、御祭神は九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)という雨乞いの黒い龍だとされます。

 

おそらく、この九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)とは卑弥呼のことで、国栖人(くずびと)を表し、素戔嗚尊に退治された八岐大蛇(やまたのおろち)が実は 物部氏ではなく、八つの股に分かれた頭が九つある秦氏を象徴する大蛇で、秦氏は蘇我氏によって滅ぼされたという物語に変更しようとしたものと思われます。

 

この戸隠神社のある戸隠は、岩手県のわんこ蕎麦や、島根県の出雲蕎麦と並んで日本三大蕎麦の一つとされる戸隠蕎麦(とがくしそば)が有名です。

 

戸隠蕎麦の特徴は、更科粉(さらしなこ)のように蕎麦の実の各層を取り分けないで、そのまま三番粉まで挽き込んだ「挽きぐるみ」(全層粉)と呼ばれる蕎麦粉を使用することで、色は黒く田舎の素朴な風味を楽しめます。

 

この戸隠蕎麦のもう一つの特徴は「ぼっち盛り」という独特の盛り方にあります。

 

「ぼっち」とは「一人ぼっち」など少ない事を表し、その語源は「一寸法師」(いっすんぼうし)の「法師」(ぼうし)から来たそうです。

 

「一寸法師」(ぼっち)は狭井の神を表し、その反対語の「大太郎法師」(だいだらぼっち)が大物主命を表します。

 

「ぼっち盛り」とは、円形の一つのざるに、一口で食べれるぐらいの束を5つ並べた盛り方です。

 

この5束というのも理由があるそうで、戸隠神社の由来の天岩戸を開けた5神に因むそうです。

 

その5神とは、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)、思兼命(おもいかねのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、天太玉命(あめのふとだまのみこと)、そして最後が天細女命(あめのうずめのみこと)で九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)の事です。

 

「細女」(うずめ)とは、「細の目」(さいのめ)、つまり、「狭井の神」(さいのかみ)という事です。

 

この天岩戸を開けた5神とは、実は、もう一つ意味があって、山幸彦が海神(わだつみ)の神の娘を貰って海幸彦の力を身に付けたとされる物部氏系の「住吉五神」(すみよしごしん)を表します。

 

本来、住吉三神と言い、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が日向(ひゅうが)で禊(みそぎ)をした時に水底で生まれたとされ、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)という神様の事です。

 

神功皇后が神託を得て、三韓征伐に向かった重要な神様で、私は天岩戸を開けるのに関わった五神のことだと思います。

 

通常、住吉三神に神功皇后を加えて住吉四神というのは、この天細女命(あめのうずめのみこと)を省いているからです。

 

神功皇后は天細女命の代わりであり、皇極天皇を象徴します。

 

住吉四神に住吉大社の摂社の若宮八幡宮のご祭神の応神天皇(おうじんてんのう)を加えて五神になります。

 

応神天皇は藤原鎌足を象徴する武内宿禰の代わりであり、春日大社の天児屋命(あめのこやねのみこと)に該当します。

 

それから、この「住吉五神」には、もう一つ意味があります。

 

それは、「天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)」で生まれた天照大神の子供とされる五神も、この「住吉五神」だという事です。

 

天岩戸を開けた五神と、誓約で生まれた五神は、それぞれ以下のように対応しています。

 

       天の岩戸                      天の誓約

 

手力雄神(たぢからおのかみ)    ・・・・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) ・・・・饒速日命と瓊瓊杵尊の祖神

 

天太玉命(あめのふとだまのみこと)・・・・天津彦根命(あまつひこねのみこと)          ・・・・木国造り、三重の多度大社

 

思兼神(おもいかねのかみ)      ・・・・天穂日命(あめのほひのみこと)       ・・・・少名彦神 学問の神

 

天児屋命(あめのこやねのみこと)   ・・・・活津彦根命(いくつひこねのみこと)           ・・・・大阪にある生國魂神社

 

天細女命(あめのうずめのみこと)   ・・・・熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)        ・・・・九頭龍大神 熊野那智大社

 

 

「天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけい)」は、天照大神の持っていた八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を素戔嗚尊が噛み砕いて生まれたのが五神で、素戔嗚尊の持っていた十拳剣(とつかのつるぎ)を天照大神が噛み砕いて生まれたのが「宗像三女神」だと言われます。

 

古事記では、素戔嗚尊が自分の持ち物の十拳剣(とつかのつるぎ)から、「宗像三女神」が生まれたので、「宗像三女神」は自分の娘だとして勝ちを宣言します。

 

しかし、私は「宗像三女神」は天照大神の娘だと思います。

 

つまり、ここで秦氏系の「宗像三女神」と、物部氏系の「住吉五神」が入れ替わっているようです。

 

おそらく、皇室が秦氏系から物部氏系に主従関係が入れ替えられたのだと思われます。

 

「十拳剣」(とつかのつるぎ)とは「十束の剣」(とつかのつるぎ)という意味と、「戸塚の剣」(とつかのつるぎ)という意味もあり、「十」(と)は「兎」(と)であり、秦氏の10支族を表し、「塚」(つか)はお墓の事なので、天照大神が噛み砕くことによって秦氏の10支族の終わりを表しているものだと思われます。

 

天細女命(あめのうずめのみこと)の「細女」(うずめ)とは「渦目」(うずめ)の事で、女王卑弥呼が台風の中心だったということです。

 

「目」(め)は、「真名」(まな)と言い、イスラエルの民の飢えを凌いだ「米」(こめ)を表します。

 

天細女命(あめのうずめのみこと)という「目」を失った久米氏はバラバラになり、日本人の血の中に溶け込んでいきます。

 

記紀では、天細女命は(あめのうずめのみこと)は、あの世の大物主命を表す猿田彦命=佐太大神(さだおおかみ)の后となります。

 

佐太(さだ)は「三」(さ)「太」(た)で宗像三女神を表すと共に閻魔大王の「裁判」(さいばん)の「沙汰」(さた)という意味も含むものと思われます。

 

エジプト神話のマントヒヒの「ヘジュ・ウル」という神様で、「偉大なる白(銀)」という意味で、月の神様であり、「トート」という朱鷺(トキ)の神様でもあります。

 

エジプトの「死者の書」では大物主命は裁判官のオシリスであり、宗像三女神は嘘をついた人の魂を喰らう「鰐」(わに)と「獅子」(しし)と「河馬」(かば)の合成獣であるアメミットに当たるのかもしれません。

 

「戸隠し」(とかくし)とは、「十」(と)の秦氏を隠すという意味になります。

 

櫛稲田姫(くしいなだひめ)の「櫛」(くし)も、「九(く)の死(し)」という意味ですし、天神様の象徴の「牛」(うし)も、秦氏を象徴する兎(うさぎ)の「兎(う)の死(し)」という意味で、「戸隠し」と同じような意味になります。

 

古代、日本では、言霊(ことだま)と言って、言葉には霊力(気)が宿ると考えられていたので、言葉の組み合わせによる呪詛を名前に付けたのだと思われます。

 

大物主命の象徴でもある「石」(いし)は「猪(い)の死(し)」ですし、「主」(ぬし)は、推古天皇の諱(いみな)である額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)や、勾玉の女神とされる沼河比売(ぬなかわひめ)の「沼(ぬ)の死(し)」という隠された意味があるようです。

 

皇極天皇(こうぎょくてんのう)を象徴する木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)が御祭神の浅間大社(せんげんたいしゃ)の末社に、久須志神社(くすしじんじゃ)がという神社があります。

 

これも「櫛」(くし)と同じように「国栖(くす)の死(し)」という意味が含まれているようです。

 

饒速日命(にぎはやひのみこと)が妻にした登美夜毘売(とみやひめ)の兄の長髄彦(ながすねひこ)も日本の先住民族で、天津神(あまつかみ)より先に渡来していた秦氏系の国津神(くにつかみ)の氏族と思われます。

 

おそらく、長髄彦(ながすねひこ)も国栖人(くずびと)で、佐伯氏(さえきし)と同族と思われます。

 

尾のある人などいるわけもなく、国栖人(くずびと)の尾は三本足の八咫烏の尾の例えであり、九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ)の「尾」(お)でもあり、狭井を表す「由緒」(ゆいしょ)の「緖」(お)という意味も含まれているように思います。

 

「緖」(お)というと、草鞋(わらじ)から生まれた下駄(げた)、雪駄(せった)、草履(ぞうり)などの「鼻緒」(はなお)を思い浮かべます。

 

「鼻緒」(はなお)とは、足を乗せる台に「眼」(め)と呼ぶ孔を3つ穿ち、そこに通した紐(ひも)のことを言い、「花緖」(はなお)とも呼ばれます。

 

三つの「眼」(め)を通してあり、足の指で挟んで履く「鼻緒」(はなお)が「三」を表す「狭井の神」(さいのかみ)を象徴しています。

 

一方、履物の元祖の草鞋(わらじ)の方は、足を乗せる台の縁に乳(ち)と呼ばれる輪が6ヶ所設けられており、これに長い緒を通して台を足裏に密着させる履物で、乳(ち)の「六」という数が、亀の甲羅の亀甲文(きっこうもん)の「六」を象徴し、大物主命を表すということかもしれません。

 

九州を筑紫国(つくしのくに)とも呼びますが、杉菜(スギナ)に引っ付いて出てくる土筆(つくし)の事で、土筆(つくし)を久米氏に例えているようです。

 

杉菜(スギナ)は大物主命の后となったとされる三穂津姫命(みほつひめのみこと)で、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた宗像三女神を象徴し、3氏族に分かれます。

 

卑弥呼を表す忌部氏(いんべし)、壱与を表す弓削氏(ゆげし)、台与を表す大伴氏(おおともし)です。

 

「忌部」(いんべ)は「斎部」(さいべ)とも呼ばれ、古代の朝廷の祭祀を担った氏族でしたが、中臣氏にその地位を奪われ、衰退の道を辿ります。

 

中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇より賜ったのが「藤原」(ふじわら)」の姓ですが、「原」(はら)という字には「平」(たいら)という意味があり、蘇我氏(菅氏)を平らにする菅原氏(土師氏)と同じく、藤原氏には秦氏を平らにするという意味があるようです。

 

欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に吉備国に蘇我稲目が派遣され、屯倉で功績を挙げたことで胆津氏(いずし)は「白猪」(しらい)という姓を賜ります。

 

その白猪氏が大阪に建てた氏寺が「葛井寺」(ふじいでら)で、「不死の井戸」という意味だったものと思われます。

 

「葛井寺」は、現在は「藤井寺」(ふじいでら)と書かれ、ここが中臣氏の前身の伊豆卜部氏(いずうらべし)のルーツだと言われます。

 

伊豆(いず)は胆津(いず)と同じ意味です。

 

「葛」(ふじ)は「国須」(くず)を表す「葛城氏」の「葛」(くず)です。

 

「白猪氏」(しらいし)のルーツは百済(くだら)の王族の辰孫王(しんそんおう)だと言われます。

 

辰孫王(しんそんおう)は、菅野氏(すがのし)と葛井氏(ふじいし)の始祖で、応神天皇の時代に、祖父貴須王(くるすおう)により、儒学者の王仁(わに)と一緒に日本に派遣されたとされます。

 

辰孫王(しんそんおう)の父は、百済の第16代の王で、辰斯王(しんしおう)と言いますが、日本書紀によると、応神天皇の時代に日本の天皇に対して無礼があったので、紀氏の祖である紀角宿禰(きのつののすくね)を遣わして、辰斯王(しんしおう)を殺し、阿莘王(あかおう)を立てたと書かれています。

 

辰孫王(しんそんおう)は、王仁(わに)と一緒に渡来したとされる秦氏を象徴する菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と境遇が似ているので、私は、漢氏系の辰孫王(しんそんおう)と、秦氏系の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が入れ替えられたのだと思います。

 

菅野氏は牛がシンボルで、土師氏と繋げられ、葛井氏は白い猪がシンボルで、藤原氏と繋げられます。

 

もし、藤原氏のルーツが「白い猪」なら、藤原氏のシンボルは「鹿」ではなく、「猪」になるはずです。

 

「鹿」は藤原不比等の生母の鏡王女(かがみのおうきみ)を象徴する「濁りのない鏡」で、秦氏のシンボルです。

 

鏡王女(かがみのおうきみ)の娘で天武天皇に嫁いだ額田王(ぬかたのおおきみ)や、 推古天皇の諱(いみな)の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)などの「額田」(ぬかた)は、泥の泥濘(ぬかるみ)を象徴する言葉です。

 

「猪」は泥浴を習性とすることから蘇我氏のシンボルとなり、白色を尊い色だとする秦氏は「白い猪」と揶揄されたのかもしれません。

 

記紀では伊吹山(いぶきやま)で蘇我氏を象徴する日本武尊(ヤマトタケル)に祟りを与えた山神が「白い猪」だとされるので、おそらく、秦氏によって蘇我氏が滅んだという神話を仕立て上げたのだと思います。

 

私は、藤原不比等は天智天皇の落胤だと思っているので、中臣鎌足と、藤原不比等の間では血縁関係はなく、代わりに、藤原不比等には母方として秦氏系の鏡王女(かがみのおおきみ)の血が入っているのだと思います。

 

天智天皇の落胤 枚岡神社

 

古事記では「天日槍」(あめのひぼこ)という新羅(しらぎ)の王族を名乗る神様がいます。

 

日本書紀では、新羅(しらぎ)ではなく意富加羅国(おほからのくに)の王子で、「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)と呼ばれます。

 

意富加羅国(おほからのくに)とは朝鮮半島にあった伽耶国(かやこく)という連合諸国の中の秦氏が住んでいた国で、それとは別に伽耶国には安羅(あら)という漢氏(あやし)が住んでいた国も存在しました。

 

400年に高句麗と新羅が五万の大軍を派遣し、伽耶国が侵略されそうになると、伽耶国の安羅軍(あらぐん)が新羅の王都を逆に占拠したとされます。

 

そして、欽明天皇(きんめいてんのう)の時代に伽耶国が滅亡して、伽耶国の人々を日本が受け入れて出来たのが葛城王朝(かつらぎおうちょう)だと思われます。

 

この「天日槍」(あめのひぼこ)の子孫が、神功皇后の母の葛城高額比売命(かつらぎたかぬかひめのみこと)で、和邇氏の系統である息長氏に母方として「天日槍」(あめのひぼこ)の血が加わります。

 

「天日槍」(あめのひぼこ)については、古事記に以下のようにあります。

 

新羅の沼で昼寝をしていた女の陰部に日光が当たって「赤い玉」が生まれ、その様子を見ていた牛を連れた男が「赤い玉」を貰い受け、旅をしている途中に「天日槍」(あめのひぼこ)と出会い、男が牛を食べるつもりだと勘違いした「天日槍」(あめのひぼこ)により、牢獄に入れられて、「赤い玉」を、「天日槍」(あめのひぼこ)に差し出す事によって牢獄から出して貰えるというものです。

 

「天日槍」(あめのひぼこ)が「赤い玉」を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になり、「天日槍」(あめのひぼこ)の正妻とするが、些細なことで喧嘩となり、妻は親の国に帰ると言って小舟に乗り難波の牛頭天王を祀る比売許曽神社(ひめこそじんじゃ)に逃げ、妻を追いかけて来た「天日槍」(あめのひぼこ)は海の神に邪魔をされて妻の元には行けず、但馬国に上陸し、多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(まえつみ)と結婚したとされ、その子孫が神功皇后へと繋がります。

 

但馬国一宮の出石神社(いずしじんじゃ)は「天日槍」(あめのひぼこ)と、前津見(まえつみ)を神格化した出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)を祀っています。

 

出石八前大神(いずしやまえのおおかみ)は八種神宝(やくさのかんだから)とも言われ、住吉五神と宗像三女神の八神を象徴しているのかもしれません。

 

「出石」(いずし)は「胆津の死」(いずのし)、「前津見」(まえつみ)の「前」(まえ)とは「前」(さき)の事で、「埼玉」(さいたま)の「埼」(さき)と同じ秦氏を表し、「秦氏を摘む」という意味になります。

 

「赤い玉」は阿加流比売神(あかるひめのかみ)と呼ばれ、推古天皇と思われます。

 

そして、日本書紀の「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)の神話では、古事記の「天日槍」(あめのひぼこ)の神話とは全然話が変わっていて、「赤い玉」が「白い石」に変わっています。

 

「赤い玉」は、「阿莘王」(あかおう)を表し、「阿莘王」(あくえおう)や、「阿莘王」(あしんおう)とも呼ばれ「莘」(か)は省略して「阿花」(あか)とも呼ばれるので、赤い「椿」(つばき)の花なのかもしれません。

 

「莘」(か)の草冠の下に「辛」(しん)という字が隠れています。

 

藤井寺の近くにある辛國神社(からくにじんじゃ)では、物部氏と同族の辛國連(からくにむらじ)が祭祀の中心となり、辛國神社(からくにじんじゃ)と称するようになったと言われています。

 

この辛國連(からくにむらじ)が白猪氏(しらいし)を表しているようです。

 

「白い石」は、「白猪の死」(しらいのし)を表していて、辰斯王(しんしおう)の「辰斯」(しんし)は、「辛の死」(しんのし)を表します。

 

「赤い玉」である天太玉命(あめのふとだまのみこと)が死んで「白い石」の天児屋命(あめのこやねのみこと)が生まれたということかもしれません。

 

「辛」(から)という字は、加羅国(からこく)の「加羅」(から)を表し「辛」(しん)と読めることから秦氏の「秦」(しん)を表すように思えますが、実際は、「甘」(あま)と「辛」(から)という言葉の意味を逆さまにしてあるのだと思われます。

 

「甘」(あま)は「甘」(かん)とも読め、安羅国(あらこく)の漢氏を表しているようですが、実際は海人族(あまぞく)で、甘い桃である「菓子」(かし)を象徴する秦氏の言葉だと思います。

 

橿原神宮(かしはらじんぐう)の「橿」(かし)も、堅い「樫の木」(かしのき)を象徴していますが、元々は「菓子」(かし)だったものと思われます。

 

大化の改新以降、天智天皇により、阿毎氏(あまし)という姓が、原氏(はるし)に変えられます。

 

阿毎氏(あまし)とは継体天皇の系統の氏族とされますが、隋書にある倭王の名で、海幸彦を象徴する氏族です。

 

三輪氏(みわし)の元の姓だと言われます。

 

三輪氏は三輪逆(みわのさかう)という人物が有名で、敏達天皇が崩御し殯宮で葬儀が行われた時に、「朝廷を荒らさぬよう。鏡のように浄めて平らかに治まるよう臣は仕えます」と誄を読んで殯庭を警護した隼人の長だとされます。

 

推古天皇を穴穂部皇子(あなほべのみこ)が犯そうと殯宮に押し入ろうとした時に、三輪逆(みわのさかう)は門を固く閉ざして一歩も中に入れなかった為、不遜であるとして穴穂部皇子(あなほべのみこ)と物部守屋によって滅ぼされます。

 

その後、穴穂部皇子(あなほべのみこ)と物部守屋は蘇我馬子に滅ぼされるので、通常なら同じ蘇我氏同士の争いに物部守屋が巻き込まれた形だと考えられます。

 

しかし、穴穂部皇子(あなほべのみこ)の母で、聖徳太子の祖母である蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)が、物部氏系の女性だとする説もあり、それが事実とするならば、三輪逆(みわのさかう)を滅ぼした穴穂部皇子(あなほべのみこ)や物部守屋の方が悪役で、蘇我馬子は悪役を成敗した正義の味方ということになります。

 

それを隠すために穴穂部皇子(あなほべのみこ)や聖徳太子が蘇我氏系の系図に書き換えられた可能性もあるというわけです。

 

推古天皇の諱の額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)の「額」(ぬか)に「沼」(ぬま)だとか「泥」(どろ)だとかといった「鏡のように浄くない」イメージを持つ言葉が多いのは、後世にそういった言葉を付け加えていったのかもしれません。

 

糠漬け(ぬかずけ)の「糠」(ぬか)という言葉も泥の中に浸かっているイメージで、「ぬか」と付けられたのだと思われます。

 

蘇我小姉君の話(橘寺)

 

推古天皇の母は蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)という名前ですが、辛い「塩」を象徴していて、甘い「菓子」とは正反対なので、こちらも後から付けられた名前なのではないかと疑問がわきます。

 

何の根拠もない想像ですが、蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)は蘇我氏ではなく、秦氏の前身の阿毎氏(あまし)だったのではないかという気がします。

 

三重県の内宮(皇大神宮)所管社の御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)では毎年10月5日に荒塩を三角錐の土器につめて焼き固める御塩殿祭(みしおどのさい)と呼ばれる神事が行われるそうです。

 

火で焼き堅めた辛國の「塩」です。

 

三角錐は三輪を表すのだと思われます。

 

三輪氏(阿毎氏)の出身地は加賀で、現在の石川県になります。

 

「石川」(いしかわ)は「猪死の川」(いしのかわ)という意味だと思われます。

 

鰐(和邇氏)を騙して海を渡った稲葉(鳥取)の白兎(秦氏)が皮(川)を剥がれて赤く(太陽神)なったけれど、大国主命に治療してもらって、元の白(川)の姿に戻ったという話です。

 

10個の支流に分かれる石川県最大級の手取川(てどりがわ)が阿毎氏(あまし)を象徴する川なのかもしれません。

 

おそらく、「鳥取」(とっとり)や、「手取」(てどり)の「取」(とり)は、「取り除く」という意味で、飛鳥時代を象徴する「鳥」や、阿毎氏(あまし)を象徴する「手」を取り除くという意味だと思われます。

 

継体天皇の后になった蘇我氏の血を引く手白香皇女(たしらかのひめみこ)は、「手」と「白香」のお姫様で、「白香」(しらか)は「白髪」(しらが)で、歳をとった稚日女尊(わかひるめのみこと)で春日老女子(かすがのおみなご)を象徴するのかもしれません。

 

千手観音の話

 

推測ですが、戦前は天皇陛下を見ると目がつぶれると言って顔が上げれなかったように、不老不死を宣伝していた推古天皇は、普段は人には姿を見せずに手だけを見せていたので、桃色のように血色の良い「桃手」(ももて)という若さを象徴する言葉が出来たのではないかと思われます。

 

酒造職人の肌は綺麗と昔から言われ、化粧品業界でも「米糠」(こめぬか)に含まれるセラミドという成分が美肌効果を齎すとして注目されるように「糠」(ぬか)が「手」を綺麗にしていた事を昔の人々は知っていて推古天皇に額田部皇女という名前を付けたのかもしれません。

 

それが血色のない死人の「玉手」(たまて)に変えられたものだと思います。

 

玉は翡翠(ひすい)の事で、「緑」を思い浮かべる方が多いと思いますが、糸魚川で採れる翡翠の90%は、すべすべとした光沢のある「白」です。

 

浦島太郎が乙姫様のいる竜宮城にいる間は歳を取らないのですが、故郷に戻った時に知人や友人もみんな亡くなっていて、寂しくなって禁断の「玉手箱」(たまてばこ)を開け、白髪になって本来の姿に戻るという話です。

 

自分だけ不老不死になってもつまらないよというわけです。

 

大阪の阿倍野区に帝塚山(てづかやま)という地名があります。

 

聖徳太子の有名な信貴山(しぎさん)の丁度、西の最端に位置する土地で、この地にある帝塚山古墳(現在の住吉区)に由来した地名だと言われます。

 

帝塚山古墳は、大伴金村とその子供の墓だと言われています。

 

おそらく、元々は手塚山(てづかやま)という意味で、推古天皇(平群真鳥)を葬った大伴氏の墓という意味だと思います。

 

この周辺には玉出(たまで)という地名も残っていて、これもおそらく、「玉手」が玉出に変わったものだと思われます。

 

信貴山と帝塚山の間には現在、柏原市(かしわらし)があり、この辺りを昔は玉手村と呼んでいたそうです。

 

蘇我氏系(雄略天皇系)の天皇を象徴する清寧天皇(せいねいてんのう)が生まれつき白髪だったという話や、秦氏を象徴する「菟道稚郎子」(うじのわきいらつこ)が、「蛆のわいた若い男」という変な意味だったり、蘇我氏や、秦氏を貶める為に、色々な物語が創られたのではないかと私は思います。

 

そして、これらに共通するのが「白」という色です。

 

確かに秦の始皇帝が「白虎」をシンボルとしていて、それをルーツに持つ秦氏の色が「白」なのは当然なのですが、ここまで強調されると、推古天皇の若さを象徴する色は「白」ではなかったのかもしれないと、逆に疑問が生まれます。

 

市杵島姫を祀る嚴島神社(いつくしまじんじゃ)にある大元神社(おおもとじんじゃ)では「百手祭」(ももてさい)という御弓神事があります。

 

「百手」(ももて)は「桃手」(ももて)で、桃色の手を表しているのだと思われます。

 

しかし、「桃」では具合が悪いので「百済」(くだら)の「百」という字が当てられたのだと思います。

 

「百」(ひゃく)という字は、「白」に「一」を足した文字なので、「白」が秦氏を表し、「一」が市杵島姫、つまり、皇極天皇を表すというわけです。

 

この「百手祭」は、「甲」「乙」「ム」の三つの文字が書かれた的に弓を射るという変わった祭りで、この三つの文字を合わせると、一番上の「、」だけが足りない「鬼」(おに)という漢字になるそうです。

 

「、」は鬼の角を表し、「争いごとをしない」という意味があると言いますが、弓矢の「矢」が弓削氏の「、」であり、的を射抜く事で「鬼」(おに)という文字が完成するという意味があるのだと私は思います。

 

「百」(もも)は他にも「百」(お)という当て字にも使われていて、畑で採れる「米」以外の野菜を売るお店を「八百屋」(やおや)と読んだりします。

 

「八百」(やお)は「八尾」(やお)であり、物部尾輿の妃になった弓削氏を象徴するようです。

 

愛知県に八百富神社(やおとみじんじゃ)という神社があります。

 

安徳天皇(あんとくてんのう)の時代に、藤原俊成(ふじわらとしなり)によって創建された神社で、御祭神が市杵島姫とされ、竹島弁天と呼ばれます。

 

八百富(やおとみ)とは「八百」(市杵島姫)が富むという意味で、「野菜」(やさい)は「野(平原)の幸」を表し、「百」(お)は「狭井」(さい)を表すという事です。

 

推古天皇の弟の桜井皇子(さくらいのみこ)の娘が吉備姫王(きびひめのおおきみ)で、皇極天皇の母親になります。

 

つまり、皇極天皇には、桜井皇子(さくらいのみこ)を通して推古天皇と同じ蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の血が流れている形になります。

 

この事から、若さを表す色が、菊理姫の「桃色」から市杵島姫の「桜色」へと変わります。

 

そして、推古天皇の「百手」(ももて)の「手」も、「足」に変えられて「百足」(ムカデ)となります。

 

「百足」(ムカデ)は、根が重なり合うように絡み、笹が覆い被さり湿気が保たれることから、竹藪に多い生き物です。

 

毒を持つ攻撃性から戦国時代の甲冑(かっちゅう)のデザインにも用いられました。

 

日本の仏教の守護神である毘沙門天(びしゃもんてん)のお使いが「百足」(ムカデ)だとされますが、外国では「百足」(ムカデ)ではなく、「鳳凰」(ほうおう)と呼ばれる太陽の鳥がお使いで、ガルーダとも呼ばれます。

 

八咫烏(やたがらす)の別名になります。

 

石川、富山、福井、岐阜の4県にまたがる白山(はくさん)と呼ばれる山があります。

 

白山(はくさん)は、「越の白嶺」(こしのしらね)と呼ばれ、「越」(こし)は米の産地である「越国」(こしのくに)を表し、太平洋側には長良川(ながらがわ)、日本海側は手取川、九頭龍川、庄川(しょうがわ)の源泉の山です。

 

山頂には女王卑弥呼(推古天皇)の別名の菊理姫(きくりひめ)が祀られています。

 

仏前に供えられる白菊の女神で、記紀によると、この世の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と、あの世の伊耶那美命(いざなみのみこと)の縁を結ぶイタコのような神様とされます。

 

東北地方で信仰される「オシラ様」も同じです。

 

紀氏(木)と橘氏(栗隈王)を象徴する「木栗」(きくり)=菓子(かし)の祖神とされ、「辰斯王」(しんしおう)と「阿莘王」(あかおう)の入れ替えに関係が深い女神になります。

 

日本のお米はジャポニカ米という種類で、DNAを鑑定すると、紀元前600年頃に中国の黄河文明に先駆け、長江文明(ちょうこうぶんめい)を築いた「越」(えつ)という国がルーツのようです。

 

おそらく「越国」(こしのくに)は、この中国の「越」(えつ)という意味と、弓削氏(ゆげし)を后にした「物部尾輿」(もののべおこし)の「輿」(こし)を表しているものと思われます。

 

「尾輿」(おこし)は海幸彦(弓削氏)を従えた山幸彦(物部氏)というわけです。

 

女性が、高い身分の人や、多くの財産を所有する人の妻になることを「玉の輿(こし)に乗る」というのも、ここから来ていて、あくまでも物部氏の方が秦氏より優位だというわけです。

 

波多氏(秦氏)の象徴である海幸彦(うみさちひこ)を祀る「潮嶽神社」(うしおだけじんんじゃ)の「潮」(うしお)は、「渦の中心」という意味や、「塩」という意味、そして「牛尾」(うしお)という意味があります。

 

「牛」は少名彦神(すくなひこなのかみ)で菅原氏を表し、「尾」は菅原氏の一部となる秦氏を表しているようです。

 

潮嶽」(うしおだけ)の「嶽」(だけ)は、「川」ではなく、猛々しい「山」という意味で、蘇我氏と結びついていた時代の秦氏を象徴しているのかもしれません。

 

この白山(はくさん)を源泉とする北陸地域では、「塩」や「糠」(ぬか)を使用した発酵食が発達をして、中には「ふぐの子のぬか漬け」という通常なら猛毒で食べられない食材を、微生物の働きによって食べられるようにした食品も存在します。

 

まさに、「塩」や、「糠」(ぬか)の漬物は神様の恵みがもたらした奇跡の食べ物と言えるかもしれません。

 

北陸物語さんのホームページ

 

豊受大神を祀る籠神社(このじんじゃ)の宮司の海部氏(あまべし)の祖は、饒速日命(にぎはやひのみこと)と、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)だとされます。

 

の二人が竹で編んだ籠舟(こぶね)に乗って最初に天降った島が「冠島」(かんむりじま)だという伝承があり、この島を竜宮城と呼び、別名を息津島(おきつじま)とも呼びます。

 

そして、この「冠島」(かんむりじま)から2キロ程先に「冠島」の約三分の一程の大きさの「沓島」(くつじま)と呼ばれる小さな島があります。

 

この二島が籠神社の神聖な島として信仰を集めています。

 

頭に被るのが「冠」(かんむり)で、足に履くのが「沓」(くつ)で、どちらが尊いかは誰が考えても分かりますが、何故、わざわざ神聖な島に「沓」(くつ)という名前を付けたのか不思議に思います。

 

私は、六朝以前に作られた「古楽府(こがふ)君子行」の故事成語、「瓜田(がでん)に履(くつ)を納(い)れず、李下(りか)に冠(かんむり)を正(ただ)さず」からこの名が付けられたと思います。

 

意味は、瓜の畑の中で靴を履き直すと瓜を盗むと疑われるし、李(すもも)の木の下で冠を被り直せば李を盗むと疑われることから、疑念を持たれるような行為は、最初からすべきではないという戒めの言葉です。

 

「冠」(かんむり)も、「沓」(くつ)も、人々から間違いを受けやすい物の比喩です。

 

「沓島」(くつじま)に「沓」(くつ)という言葉が選ばれた理由は、この島が女王卑弥呼(菊理姫)を表す本当の竜宮城で、大物主命を表す「冠島」(かんむりじま)より劣っている事を表す為だと思います。

 

「沓」(くつ)という字は、「水の底に沈んだ太陽」を表す文字です。

 

小さくて、見窄らしくて、卑しくて、汚いと思う物の中に、実は本当に貴いものが隠されているという事です。

 

鎌倉幕府から悪党と呼ばれた楠木正成(くすのきまさしげ)の菊水紋も、同じ意味を持っていると思います。

 

泥の中の翡翠(ひすい)であり、泥の中の蓮(はす)の花であり、一番働いてボロボロになる靴です。

 

イエス・キリストは最後の晩餐で、12人の弟子達の足を洗ったと言います。

 

それは弟子達への最大限の愛情表現だと言われますが、人の足を洗うということは身分の高い人のする行為ではありません。 

 

その為、ペテロは頑なに拒否したと言われます。 

 

しかし、足を洗わないなら、私とあなたは何の関係もなくなると言って、ペテロを説得し、ペテロはそれに応じたと言います。

 

イエス・キリストを遣わしてイスラエルの民にヤハウェが教えたかったのは、実はこの事なのかもしれません。

 

          菊水紋

 

杉菜(スギナ)の話に戻りますが、杉菜(スギナ)は木賊(トクサ)の中では最も小柄な雑草で、木賊(トクサ)とは十草(トクサ)という意味で、秦氏が元々は10支族だったことを表しているようです。

 

饒速日命(にぎはやひのみこと)が持っていたとされる十種神宝(とくさのかんだから)も同じ秦氏10支族の意味があると思います。

 

宗像三女神を1氏族と考えると「1(大伴氏)+9(久米氏)=10」となり10支族になり、宗像三女神を3氏族と考えると「3+9=12」となり12支族になります。

 

奈良の橿原市に久米寺(くめでら)というお寺があります。

 

聖徳太子の弟とされる来目皇子(くめおうじ)の創建と伝えられるお寺で、来目皇子は女性のふくらはぎに見とれて神通力を失った人間味あふれる久米仙人(くめせんにん)としても知られます。

 

ふくらはぎは、桃色の足の、「百足」(ムカデ)を表します。

 

私は、聖徳太子は後から創作された架空の人物ではないかと思っているので、この来目皇子(くめおうじ)も創作で、聖徳太子の右腕だった秦河勝を表し、久米氏を象徴する人物ではないかと思います。

 

来目皇子(くめおうじ)は幼少の頃に眼病を患って両目を失ったとされ、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願したところ平癒したと言われていますが、病気で苦しむ「苦目」(くめ)を象徴しているようです。

 

続日本紀に記載される新薬師寺(しんやくしじ)の創建された理由が聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願する為のものだとする理由も、この話とよく似ています。

 

新薬師寺は、十二神将像が有名ですが、十二神将像が取り囲む薬師如来坐像の、「目」が異様に大きく作られているのも特徴です。

 

薬師如来は12使徒を導いたイエス・キリストであり、秦氏を導いた薬草の神様でもあり、目の神様である「幸の神」(さいのかみ)というわけです。

 

私は秦氏10支族は、イスラエルの消えた10支族で、饒速日命(にぎはやひのみこと)がモーセの末裔ではないかという気がします。

 

さて、卑弥呼を象徴する「由」(ゆ)を逆さにした漢字が「甲」(こう)で、逆さ瓢箪(ひょうたん)を表します。

 

「甲」(こう)で「兜」(かぶと)を表す言葉です。

 

八幡神とされる神功皇后(じんぐうこうごう)の祖は、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と呼ばれる鹿の角の付いた兜を被った人物です。

 

神功皇后は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)を象徴した天皇なので、「由」が「甲」となり、推古天皇(卑弥呼)に代わって皇極天皇(壱与)が天照大神を引き継ぐことになったという意味があるようです。

 

そして、亡くなった推古天皇(菊理姫)を象徴する文字が「六甲」で、六甲山より吹き降ろす山風を「六甲颪」(ろっこうおろし)と呼び、「風の神の素戔嗚尊で推古天皇を降ろす」という意味になります。

 

「6」という数字は下を向いた勾玉の形で、出雲大社の神紋の亀甲紋を象徴し、仏教の世界でも六道(ろくどう)や六文銭(ろくもんせん)など、あの世を表すというわけです。

 

ちなみに「9」は上を向いた生きる勾玉ですが、久米仙人の苦しみの「9」(く)という意味も加わり、あまり縁起の良い数字とはされなくなります。

 

ちなみに9月9日は重陽(ちょうよう)と呼ばれ、別名を菊の節句と呼びます。

 

陰陽思想では、「9」は一桁の数のうち最大の「陽」(よう)なのですが、奇数が重なる日は「陽」(よう)の気が強すぎて不吉だとされていたそうで、「重い陽」という名前が付けられたようです。

 

言葉によるイメージに、私達はかなりの部分で影響を受けているように感じます。

 

日本では「赤」は、「皸」(あかぎれ)や、「垢」(あか)、「赤字」など悪い意味にもよく使用され、「白」は、「柏手」や、「拍手」、「純白」、「潔白」など、「白」の方がより縁起の良い色とされます。

 

舌切り雀の童話でも、竹藪の中の雀のお宿で、雀を可愛がったお爺さんが選んだ「黒」の箱からは宝物が出て、雀の舌を切ったお婆さんが選んだ「赤」い箱からは蛇やムカデや牛糞や鬼が出てお婆さんを殺してしまいます。

 

「赤字」に対して「黒字」など、「赤」より「黒」の方が縁起が良い色というわけです。

 

しかし、中国の道教では漢氏を象徴する北斗七星は「老いの白」を表し、秦氏を象徴する南斗六星は「若さの赤」を象徴する星で、「赤」が縁起の良い色とされます。

 

言葉が違うと、価値観も変わるという事です。

 

天皇家は、皇極天皇が引き継ぎましたが、氏族としては、「鳥」の氏族である「平群氏」(へぐりし)に代わって、「甲」(かぶと)を象徴する「椿井氏」(つばいし)が引き継ぐ形になります。

 

「椿井氏」(つばいし)は藤原氏系の氏族で、シンボルは「椿」(つばき)です。

 

平群氏と椿井氏の話

 

話が変わりますが、「逆さ瓢箪」と聞いて思い出すのが、それを馬印としていた豊臣秀吉です。

 

東大阪に、瓢箪山稲荷神社(ひょうたんやまいなりじんじゃ)という神社があります。

 

豊臣秀吉が大阪城築城の際に、鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒だとされます。

 

「ふくべ稲荷」とは豊受大神の別名で、「ふくべ」は瓢箪のことです。

 

瓢箪山稲荷神社の背後に、珍しい双円墳の古墳があり、その形状が瓢箪の形に似ていることから瓢箪山古墳と呼ばれます。

 

北側の円墳を大塚と呼び、別名を狐が住みついていたという伝承から狐塚と呼びます。

 

南側の円墳を鬼塚と呼び、女王卑弥呼(菊理姫)を表しているのだと思われます。

 

木下藤吉郎が豊臣姓を名乗ったのも、瓢箪が理由で、「狐」も、「犬」も、「狼」も同じものを表しているようです。

 

さて、「甲」(こう)は、亀を表し、「乙」(おつ)は蛇を表します。

 

この亀と蛇のセットが、玄武(げんぶ)であり、殷から見て、北にあった「羌」(きょう)という国を指します。

 

「北」という漢字は、「木」を中央から真っ二つに分けた漢字で、左右それぞれが、「才」(亀)と「ヒ」(蛇)になります。

 

左側の亀は、「木」の三本足のうち、「蘇我氏」と「秦氏」の二つの足を持つことを表していて、右側の蛇は、「物部氏」の足が一つだけだという意味のようです。

 

蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)の堅塩(きたし)とは、「北」(きた)の「死」(し)を表しているのかもしれません。

 

三つ巴の勾玉も、「蘇我氏」、「秦氏」、「物部氏」の三氏族のことで、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、勾玉を表す「瓊」(に)という漢字が二つ付いているので、「蘇我氏」と「秦氏」の二つの勾玉を持っていたという意味なのかもしれません。

 

それに対して、饒速日命(にごはやひのみこと)は漢字が違うのですが、瓊杵速日命(にぎはやひのみこと)と書く事も可能で、「瓊」(に)が一つなので、「物部氏」の勾玉を一つだけ持っているという意味になるのかもしれません。

 

「北」の右半分の物部氏を表す「ヒ」(ひ)という字は、「旨」(うま)という字にも使われていて、宗像三女神の「宗像」(むなかた)とは「旨像」(むなかた)の事で、「甘」(あま)や、「午」(うま)と同義になります。

 

市杵島姫(いちきしまひめ)の「市」(いち)は、壱番目の天照大神を表し、「杵」(き)は午の形をした木を象徴するというわけです。

 

ちなみに「旨像」(むなかた)の反対語が「麻賀多」(まかた)で、あの世の菊理姫(白菊)を象徴し、壱番目の天照大神の地位を奪われた形になります。

 

日本で、皇室の都を、「京」(きょう)と呼ぶのは、「羌」(きょう)から来ているのだと思います。

 

「京」(きょう)とは、小さな口を「亠」(けいさんかんむり)=鍋蓋で蓋をするという意味です。

 

鍋は縄文時代から使われていて、土師氏の土師器(土鍋)が有名ですが、ここでは、金属の鍋を表しているのかもしれません。

 

以呂波かるたは、仮名(かな)の47枚の最後に「京」と書いた札が最後の札として付いていたので、「かなどめ」とも読まれます。

 

金(かね)は大物主命を表し、小さな口を大物主命で蓋をするという意味のようです。

 

「由」の小さな口を広げて大きくした形が、「曲」という漢字で、水が沢山貯まることを象徴しているのかもしれません。

 

口の無い「田」(た)という漢字は、果実の「果」(か)という漢字を見ても分かるように、木の上に実った果物や、木の実、そして稲の実を表します。

 

「口」に「十」(もぎき)の「田」(た)も、「大」に「、」の「太」(た)も同じような意味合いになります。

 

「禍」(わざわい)の反対語の「福」(ふく)という漢字は、神をまつる祭壇の形の「ネ」(示)という文字と、豆が豊かに実った状態を表す「畐」(ふく)という文字で、豊かな実りを神様に感謝するという意味になります。

 

「富」(と)むという漢字の、「宀」(うかんむり)は家を表し、家の中に豊かな実りがあるという意味です。

 

「ふく」という読みは「服」(ふく)と同じ意味で、当時は絹で織られた呉服(ごふく)が高価な財産であり富の象徴だったことから、幸せを「福」(ふく)と呼ぶようになったようです。

 

豊受大神(とようけのおおかみ)の「受」(うけ)は、道教の影響を受けた陰陽道の「有卦」(うけ)を表すのだと思います。

 

干支の運勢の回りがよく、あらゆる幸福が巡ってくる状態を表します。

 

「福は内」の状態で、誓約(うけい)を表します。

 

家の中に豆をまいて、家が「富」(と)むように願います。

 

その反対が、「無卦」(むけ)で、何をやっても上手くいかず、「払」(はら)う状態です。

 

「鬼は外」の状態で、祓(はら)いを表します。

 

家の外に豆をまいて、悪運の芽を家から追い出します。

 

つまり、日本の節分は、純粋な道教のお祝いではないということです。

 

        宮廷行事、射遺の図 「年中行事絵巻」

 

 

「巴」(ともえ)の話に戻りますが、巴紋の形状は、弓を射る時に使う「鞆」(とも)の形を表したものだという説があります。

 

「鞆」(とも)とは、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放った後、弦が腕に当たらないように防ぐ道具です。

 

腕に装着している時は、円になりますが、紐を外すと、巴の形になります。

 

「円(えん)」という漢字も、「巴」(ともえ)を真っ直ぐに左右対称にした形なのかもしれません。

 

「ともえ」の「え」は、「柄」(え)のことで、刀を持つための「柄」(つか)の部分を表します。

 

「柄」(つか)の素材は、樫の木を、鮫(さめ)の革で巻いた物が多く見られます。

 

弓矢の八幡神として、誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)という別名を持つ応神天皇(おうじんてんのう)という天皇がいます。

 

誉田(ほむた)は、「巴」(ともえ)の古語を「ほむた」と呼ぶことから来ているようです。

 

応神天皇(おうじんてんのう)は、和邇氏(わにし)を神格化した天皇で、大伴氏(おおともし)により、蘇我氏が天皇家から分けられ、蘇我氏の血は女系として構築仕直した継体天皇(けいたいてんのう)へと続きます。

 

この大伴氏(おおともし)が、「巴」(ともえ)の氏族であり、豊受大神(とようけのおおかみ)になります。

 

ちなみに刀の「柄」(つか)の樫の木は蘇我氏を表し、鮫(さめ)は和邇氏を表すようです。

 

和邇(わに)とは龍を表し、邇(に)は瓊(に)と同じ意味で、「環(わ)になった勾玉」という意味だと思われます。

 

和邇氏の話 「龍田大社」

 

後、刀剣の刀身と「柄」(つか)の間に挟んで、柄を握る手を防護する金具を「鍔」(つば)と呼びます。

 

古くは「津美波」(つみは)と呼ばれていたものが、詰まって「つば」になったと言われています。

 

「波」(は)は伊邪那美命(いざなみのみこと)の「波」(なみ)や、「波多」(はた)の「波」(は)を表し、「津美」(つみ)は、「摘み」(つむ)という意味で、秦氏を摘み取るという意味だと思います。

 

住吉五神が海神(わたつみのかみ)と呼ばれるのは「波多摘み」(はたつみ)という意味と、阿波国で忌部氏が栽培したとされる「木綿」や、「麻」の「綿摘み」(わたつみ)という意味があるように思います。

 

「鍔」(つば)は上から見ると楕円形の中心に穴が開いているので「咢」(口を大きくあける)という意味で、似た「鰐」(わに)という漢字も、口を大きく開けた生き物を表します。

 

和邇氏(わにし)の血を引く息長氏である神功皇后に、「鍔」(つば)に関係する伝承があります。

 

神功皇后が三韓征伐の帰途に、福岡県の椿八幡宮(つばきはちまんぐう)の地に立ち寄られ、堅い木で作られた「鍔」(つば)を奉納され、日本の平和と繁栄を祈願されたとされます。

 

その堅い木は「鍔の木」(つばのき)と呼ばれ、そこから「椿」(つばき)という名前が付けられたというものです。

 

「椿」(つばき)は天細女命(あめのうずめのみこと)の夫である猿田彦命(さるたひこのみこと)の木だと言われます。

 

「鍔」(つば)は八幡神の宗像三女神を表し、「柄」(つか)は、「十拳剣」(とつかのつるぎ)の「拳」(つか)でもあるようです。

 

「鞆」 (とも)や、「柄」(つか)に使われている「丙」(へい)という漢字は、植物が土から芽を出し、双葉が同じように横に伸びるという状態を表した象形文字 で、双葉とは、天照大神(太)と、豊受大神(犬)を表しています。

 

物部氏(大物主命)と秦氏(豊受大神)の血を引く賀茂氏(かもし)の賀茂神社(かもじんじゃ)では、二葉葵(ふたばあおい)が御神紋とされます。

 

葵(あおい)は推古天皇(すいこてんのう)の「赤」に対して、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)の「青」を表すようです。

 

本来、「丙」は、「甲」、「乙」、「丙」の三番目ということから三がシンボルなのに、何故、二葉なのかというと、天照大神、豊受大神(月読命)と来て、三番目が素戔嗚尊(すさのおのみこと)を表す「ム」だったのですが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が省かれて、二葉の「丙」になったようです。

 

「丙」は蘇我氏(天武天皇)を滅ぼした平家(高野新笠)の「平」でもあります。

 

         © Mukai

          二葉葵

 

天下三不如意(てんかさんふにょい)という言葉があります。

 

世の中で、思い通りにならないものを指します。

 

平家物語の第一に記されている白河天皇(しらかわてんのう)の「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた言葉が由来だとされます。

 

賀茂河の水は古来氾濫を繰り返す暴れ川として知られる自然を表し、双六(すごろく)の賽はサイコロの目のことで運命を表し、山法師は日吉山王社の神輿を担いで都に雪崩れ込んで強硬な態度で訴えかけた比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の僧兵だとされ、考えの違う人間を指します。

 

賀茂河の水は豊受大神、賽(さい)は狭井神社(さいじんじゃ)の素戔嗚尊(すさのおのみこと)、日吉山王は大物主命を表し、この三つは、自分の思い通りにはならないということのようです。

 

豆腐をサイコロのように小さく切ることを「さいの目」切りと言います。

 

素戔嗚尊(すさのおのみこと)は、鼻から生まれたとされますが、本当は眉間にある「第三の目」を表すようです。

 

インド神話の破壊神シヴァは、この第三の目から光を放ち世界を焼き尽くすと言われ、仏教でもブッダの眉間には白毫(びゃくごう)と呼ばれる渦巻があり、ここから光を放ち世界を照らしたとされ、眉間は仏教にとって重要な意味を持つようです。

 

人間の脳の前頭葉の意識が集中する場所が、丁度、この眉間に当たり、光を感じる場所だとされます。

 

物質世界と、精神世界を繋ぐ渦の中心のようです。

 

ここで、「甲」(こう)、「乙」(おつ)、「丙」(へい)と来たので、ついでに「丁」(てい)についてですが、「釘」(くぎ)の形を表す象形文字だとされます。

 

「丁」の先が曲がっているのは、人を傷つけないように「針」のように鋭利にしていないことを表し、使用するには「金槌」(かなずち)が必要で、「金槌」を使って「木」に「釘」を打ち付けます。

 

「針」は蘇我氏を表し、「木」は秦氏を表し、「金槌」(かなずち)は製鉄のシンボルで、物部氏や、藤原氏を表します。

 

針の話 「水間寺」

 

「釘」(くぎ)は、気を使った仕事から、丁寧(ていねい)など、完成された仕事を表します。

 

「丁」はウロボロスの環が完成した「口」と同じ意味を持ち、四番目の「四」という意味があるので、四角形の豆腐などを数える際には、1丁(ちょう)、2丁、3丁…と数えます。

 

甲(天照大神)、乙(大物主命)、丙(豊受大神)、丁(大国主命)という順番を表し、大国主命が「国」を完成させたということから、「釘」になったようです。

 

「国」は、昔は「邑」(むら)や、「群」(むら)と書かれ、「国」と呼べる程、大きいものではなかったようです。

 

大国主命は、仏教の大黒天(だいこくてん)と習合しますが、大黒天はインド神話の破壊神シヴァのことで、素戔嗚尊(すさのおのみこと)のことでもあります。

 

大国主命が、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の試練に耐えて、婿として認められたので、習合したものと思われます。

 

聖徳太子が建てたとされる法隆寺の仏像の眉間には、痛々しいのですが、白毫の代わりに「釘」が打ち込まれていて、何故、仏像のこの場所に「釘」が打ち込まれているのか謎だとされています。

 

「第三の目」を決して開いてはいけないという意味なのかもしれません。

 

アセナの白い月 3 へつづく