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           塞の河原(さいのかわら)の積み石

 

仏教で、あの世とこの世を隔てる川があって、三途の川(さんずのかわ)と呼びます。

 

「地蔵和讃」によると、三途の川には、塞の河原(さいのかわら)と呼ばれる河原があります。

 

ここには、親より先に亡くなった幼い子供たちがいて、川を渡ることが出来ずに、河原にある石を積み上げて、搭を造ろうとしています。

 

搭を完成させると、親より先に亡くなった親不孝の供養が出来るそうですが、完成しそうになると鬼が来て、全て壊してしまい、永遠に報われない努力を続けることとなります。

 

この報われない子供たちを救済する菩薩がいると言われます。

 

地蔵菩薩(じぞうぼさつ)です。

 

菩薩とは、如来に次いで高い位いで、元々、仏陀の弟子を指しています。

 

菩薩の中にも順位があり、経典によっては十段階に分ける場合も有り、五十一段階に分けられる場合も有るそうです。

 

観音菩薩(かんのんぼさつ)など仏像になっている菩薩は最上位ですが、悟りを得ようとするなら、誰でも最下位ではありますが菩薩になれると大乗仏教では言われています。

 

菩薩の主な仕事は、如来の手伝いで、三尊像として、如来が菩薩を両脇に従えることが多くあります。

 

この数ある菩薩の中でも、地蔵菩薩は特殊で、菩薩界には居らず、自らの意思で地獄に堕ち、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上界の六道と呼ばれる六つの世界を自分の足で歩き、見つけた衆生を、一人残らず救済していきます。

 

よく、六つ並んだお地蔵さんを見かけるのは、六つの世界を救済するという理由からです。

 

六道輪廻から衆生を救済するとされた観音菩薩に代わる仏様として地蔵菩薩が選ばれたのかもしれません。

 

施餓鬼供養(せがきくよう)と呼ばれるものがあります。

 

死後、餓鬼道に堕ちた衆生の為に食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指します。

 

お地蔵さんは、六道を全て行き来しているので、お地蔵さんに水を掛けると、その水が餓鬼道に堕ちた衆生の喉を潤し、施餓鬼供養(せがきくよう)になるとされます。

 

釈迦が入滅した後、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出現するまでの間、衆生の救済を任されたのが地蔵菩薩だそうです。

 

地蔵菩薩は、剃髪で、衣を着ていて、右手に六道を歩く為の錫杖(しゃくじょう)を持ち、左手の手のひらには、如意宝珠(にょいほうじゅ)をのせています。

 

如意宝珠とは、竜王が持つとされる、神の姿を見ることができる智恵の珠で、法華経では衣裏宝珠(えりほうじゅ)とも呼ばれる、全ての信仰を象徴する珠です。

 

仏教も、道教も、神道も、キリスト教も、全ての信仰を一つに結ぶ真実の珠です。

 

法隆寺金堂の吉祥天像(きっしょうてんぞう)も、この珠を持っています。

 

奈良市今市町には、本尊を地蔵菩薩とする帯解寺(おびとけでら)と呼ばれる安産祈願のお寺があります。

 

寺伝によりますと、長らく御子に恵まれなかった文徳天皇(もんとくてんのう)の后の染殿皇后(そめどのこうごう)、つまり、藤原明子春日明神に祈願したところ、明神のお告げがあり、本寺の地蔵菩薩に祈願せよと教えられ、早速、この地蔵尊に祈願したところ、文徳天皇の第四皇子、惟仁親王(これひとしんのう)が生まれたとされます。

 

文徳天皇には、紀名虎(きのなとら)の娘、紀静子(きのしずこ)との第一皇子の惟喬親王(これたかしんのう)がいたのですが、藤原明子の父の藤原良房(ふじわらよしふさ)によって文徳天皇が崩御した後、惟仁親王(これひとしんのう)が、わずか9歳で清和天皇(せいわてんのう)として即位し、良房が外戚(がいせき)として政治の実権を握りました。

 

これ以降、春日明神と、地蔵菩薩は同一の神様として信仰されるようになります。

 

奈良県桜井市にある大物主命(おおものぬしのみこと)を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)があります。

 

この大神神社と、檜原神社(ひはらじんじゃ)の間に狭井神社(さいじんじゃ)と呼ばれる摂社があります。

 

大物主命の荒御魂(あらみたま)の少彦名命(すくなびこなのみこと)を祀っており、別名を荒神(こうじん)とも呼ばれます。

 

国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・石の神など多様な性質を持ち、古来薬の一つとされた酒造りの技術も広めた神様としても信仰されます。

 

実は、この少彦名命(すくなびこなのみこと)は、大物主命=饒速日命(にぎはやひのみこと)と共に渡来した蘇我氏を表し、素戔嗚尊の別名と考えても間違いではないように思います。

 

ただし、厳密には、蘇我氏の役をする蘇我倉山田石川麻呂が少彦名命で、蘇我氏と物部氏の橋渡しをした秦氏になります。

 

荒神は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)であり、八岐大蛇(やまたのおろち)の事代主命(ことしろぬしみこと)=蛭子命(ひるこのみこと)に代わって天皇家を八氏族に分けた八咫烏(やたがらす)になります。

 

狭井神社を、通称、花鎮社(けちんしゃ)と呼び、毎年旧暦3月(季春)に鎮花祭(はなしずめのまつり)という、疫病が流行しないようにと疫癘(えきれい)を鎮める祭りが行なわれます。

 

風によって桜の花の散る季節に、疫病が流行するのを防ぐお祭りだと言えます。

 

鎮花祭(はなしずめのまつり)は、(くすりまつり)や、(やすらいまつり)とも呼ばれ、大神神社が最初に行った祭りですが、京都の今宮神社などでも行なわれ、桜をあしらった大きな傘(笠)を先頭に氏子たちは口々に「やすらえ花よ」と唱え練り歩き、この傘の下に入ると悪霊を祓ってもらえると言われます。

 

この狭井神社(さいじんじゃ)狭井(さい)が、塞の河原(さいのかわら)の塞(さい)であり、大物主命の別名が、塞の神(さえのかみ)という神様です。

 

塞(さえ)は防ぐという意味があり、石の神様で、結界の神様とされ、記紀で、伊邪那岐(イザナギ)が、黄泉の国の伊邪那美(イザナミ)から逃れて、入口を大岩で塞ぎ、死の世界と生の世界を、区切って離縁してしまいます。

 

この世界を区切った結界の石は、おそらく佐伯氏(さえきし)であり、大物主命に仕えて弓削氏と名を変えた氏族だと私は思います。

 

大物主命は天智天皇を意味し、弓削氏は皇極天皇の春日明神を意味するようです。

 

             日本画に描かれた西王母と武帝

 

伊邪那岐(イザナギ)が、伊邪那美(イザナミ)の追っ手から逃げる途中に、桃の実を三つ投げつけたという記述があります。

 

これにも意味があって、伊邪那美(イザナミ)は西王母(せいおうぼ)と呼ばれる道教の女神をモデルにしているものと思われ、西王母は不老不死の実である仙桃を食べて三千年も生きていたとされていたので、桃の実を投げつけたというのは、神道が、道教との決別を表しているのではないかと思います。

 

西王母(せいおうぼ)の聖誕祭は3月3日とされ、蟠桃会(ばんとうえ)と呼ばれる宴会を開き、お祝いに訪れた上級の貴仙や神族に、九千年に一度熟すという不老不死の仙桃振舞うとされ、桃は道教にとってのシンボルと言えます。

 

纒向遺跡(まきむくいせき)と呼ばれる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡が、三輪山の北西麓一帯にあります。

 

この遺跡の穴「土坑」から、桃の種約2000個が見つかり、当時の人々が桃を食べていたことが分りました。

 

桃が寿命を延ばすと信じられていたのかもしれません。

 

               桃

 

この纒向遺跡(まきむくいせき)には、箸墓古墳(はしはかこふん)があります。

 

大物主命の妃である倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の墓であり、卑弥呼(ひみこ)の墓という説もあります。

 

おそらく、迹迹日(ととひ)は、「飛ぶ鵄(トビ)」という意味で、神武天皇の弓の先に止まって光り輝い「金」(きんし)をあらわしているのだろうと思います。

 

金(黄)という色は、太陽の光を反射する銅鏡の色を表し、神武天皇の弓に止まるというのは、弓を作る氏族であったことを表しているのだと思います。

 

「黄船」(きふね)に乗って現れたとされる貴船神社(きふねじんじゃ)の玉依姫(たまよりひめ)は天智天皇に嫁いだ蘇我倉山田石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)を指すようです。

 

おそらく、物部氏に嫁いだ秦氏が弓削氏であり、大伴氏(佐伯氏)から分かれた氏族だと思われます。

 

      金鵄(1937年発行のはがき)

 

百襲媛(ももそひめ)とは、桃と蘇の媛という意味かもしれません。

 

蘇(そ)は蘇我氏を意味しているのかもしれません。

 

迹迹日(ととひ)は登美夜姫(とみやひめ)を、百襲(ももそ)は麻姫(あさひめ)の二人表しているのかもしれません。

 

この百襲媛(ももそひめ)ですが、陰部に箸(はし)が刺さって亡くなったとされます。

 

箸の歴史は、中国の殷(いん)という国の遺跡から青銅器の箸が発見され、紀元前1200年~1300年頃に始まるとされていますが、日本人が、ご飯を食べるのに箸を使うようになったのは7世紀の初め頃だと言われています。

 

聖徳太子が、遣隋使(けんずいし)で、小野妹子の使節団を隋(ずい)に送りました。

 

そこで王朝の人々に歓迎を受けたのですが、王朝の人たちが箸を使って食事をしているのを見て驚き、日本に戻って聖徳太子に報告しました。


それを聞いた聖徳太子が、今度、中国の使節を日本に招待する時のために、大急ぎで箸を使った食事作法を、朝廷の人に習わせたということです。


ここから、日本で食事に箸を使う風習が始まります。

 

その後、空海が、庶民に、仏教と共に箸を使うことを推奨し、仏教と箸が切っても切れない仲となります。

 

嫌い箸という、仏教にとっての、箸に関するタブーがあります。

 

代表的なものに、「立て箸」、「たたき箸」、「ちがい箸」と言うものがあります。

 

「立て箸」とは、ご飯にお箸を突き刺すことです。

 

死んだ人に供えるご飯には、お箸を突き刺して供えますが、生きた人のご飯に箸を立てるのは不吉とされます。

 

それから、「たたき箸」は、箸でお茶碗などをたたいて音を鳴らすことです。

 

長柄の人柱で有名な、「雉も鳴かずば撃たれまい」のことわざから、箸(橋)で音を鳴らすことを不吉とします。

 

最後に「ちがい箸」とは、違う種類のお箸を組み合わせて使うことです。

 

死者を火葬した後、お骨(こつ)を拾い集める時に使うのが「ちがい箸」と言われ、竹と木などの種類の違う箸を組合すのは、死と生の世界が違うことを表し、遺族がその箸を使ってお骨を拾うことで、死者が成仏するようにと「三途の川の橋渡し」をするという意味があります。

 

そのことから、普段の食事で「ちがい箸」を使うことは不吉とされます。

 

箸で摘んだ食べ物を、直接、他の人が箸で受け取る行為も、「橋渡し」となるので、こちらも同様です。

 

「竹」とは推古天皇を表し、「木」とは皇極天皇を表します。

 

塔婆供養(とうばくよう)に用いられる「卒塔婆」(そとうば)「板塔婆」とも呼ばれ、「木」になります。

 

「五輪塔」(ごりんとう)を簡略化したもので「石」の代わりになります。

 

京都府木津市加茂町にある磐船寺(がんせんじ)から浄瑠璃寺(じょうるりでら)にかけての「当尾の里」(とおののさと)は磨崖仏(まがいぶつ)と呼ばれる石仏が有名ですが、元々は「五輪塔」が尾根のように立ち並ぶために「塔尾」(とおの)と呼ばれたそうです。

 

「塔」(とう)は「東」(とう)で、滅ぼされた物部氏の「日が死」(ひがし)の「東」(ひがし)を意味するようです。

 

京都府北部にある宮津湾と、内海の阿蘇海を南北に隔てる洲で、道には松の木が並ぶ天橋立(あまのはしだて)は、竹から木(松)=推古天皇から皇極天皇に代わった天の橋(箸)という意味です。

 

松の話

 

滋賀県の多賀大社の杉坂の御神木では、箸を地面に突き刺したら、それが杉の木になったという箸立て伝説もあり、こちらも、竹から木(杉)に代わったことを表しています。

 

高尾山の飯盛杉や、教行寺の御箸杉など、地面に刺された箸が根付いて大木や神木になったとする伝説は、日本各地にあります。

 

箸は、蘇我氏と係わりが深く、仏教を嫌う神道では、箸が原因で、百襲媛(ももそひめ)が亡くなったという神話にしたようです。

 

              傘松公園から見た天橋立

 

三途の川を渡ってみる2 につづく…