エジプトでは、死んだ人間は、月の神トート神と、黒い犬(ジャッカル)の神アヌビスによって裁判にかけられます。

 

トート神は、現在は、朱鷺(トキ)の姿とされますが、古代のヘジュ・ウルという猿(ヒヒ)の神様と習合したので、猿の姿で表される時もあります。

 

天秤の上に乗っている猿が、トート神のようです。

 

この裁判では、まずは、自ら生前に犯した罪を告白させられます。

 

この時に、嘘をついても、天秤によって真実が明かされるので、裁判は必要がないように思いますが、自分の口から告白を迫ります。

 

嘘が、あらゆる罪の源だからです。

 

天秤は、公正を表し、弁護士のマークにもなっています。

 

この天秤の左に乗っているのが死者の心臓で、「魂」を表します。

 

右に乗っている羽根は、「マアトの羽根」と呼ばれます。

 

外来神のマアトという女神で、もともとはシュメールのイシュタルという女神の羽根です。

 

ギリシャ神話ではアストライアーと呼ばれ、星座の天秤座と、乙女座が、この女神と関係しています。

 

何故、羽根なのかということですが、古代の人達は、天国が空の上にあると思っていたので、善人は、天国へ行く為の翼が、この裁判で神様からいただけるという象徴なわけです。

 

悪人だと、アメミットと呼ばれるワニとライオンとカバの合成した怪物に食べられて、二度と生きて返れなくなると信じられていました。

 

この死者の裁判という神話は、仏教にも取り入れられました。

 

閻魔大王です。

 

 

死者に罪を告白させて、嘘をつくと、エンマというペンチで、舌を引き抜かれます。

 

そして、この嘘を見破るのが「浄玻璃(じょうはり)の鏡」という道具です。

 

鏡は、真実を映し出すというわけです。

 

まあ、羽根であれ、鏡であれ、神様は、全てお見通しなのです。

 

話は変わりますが、日本人ほど「嘘」が嫌いな民族は珍しいように思います。

 

日本の武士は、「朱子学」を学びました。

 

「孔子」の弟子の「孟子」から生まれた「人間は生まれつき善」だとする「性善説」の儒学です。

 

明治維新を起こした吉田松陰という人も、根っからの善人で、「孟子」を愛しました。

 

「孟子」は、政治を、嘘をつかない「王道」と、嘘つきな「覇道」に分け、王道政治を推奨した人です。

 

このようなわけで、日本という国は、「孟子」の影響が強かったわけです。

 

それに対して、本場の中国では、孔子の弟子の「荀子」という人が、「孟子」と反対の「人間は生まれつき悪」だとする「性悪説」を唱え、さらに、「荀子」の弟子の「韓非子」という人が、「だから、法律を強化し、国家権力によって、悪である人間を規制しなければならない」とする考えを進めました。

 

中国を、最初に統一した秦の始皇帝は、この「韓非子」を登用し、法律によって、全国民を従えました。

 

その時代から、中国では、「韓非子」を重要視し、現在に至るわけです。

 

「韓非子」の思想は、イタリアのマキャベリと同じような「目的の為には手段を選ばない」思想です。

 

日本人は、嘘をつくことが恥ずかしいことだと考えますが、「韓非子」は、得をするなら嘘もつくというスタンスです。

 

日本とは全然違う、物の考え方です。

 

日本人は、誠意を持って話しあえば、分かり合えると思っていますが、相手は、誠意ではなく、得か、損かが全ての基準になっている場合が多いということです。

 

全ての中国の方が、そうだというわけではありませんが、その傾向が強いように思います。

 

日本では、子供たちが約束をするときに「指切り」というものをします。

 

小指を交差させて「X」という形を作ります。

 

「指切りげんまん、嘘ついたら、針千本、飲~ます」

 

「指切った」

 

とするあれです。

 

意味は、嘘をついたら拳骨で一万回殴られて、裁縫針を千本飲まされるという恐ろしい誓いです。

 

この「指切り」と似た風習は外国にもあるようですが、嘘をついたら厳罰を受けるというのは、日本だけのようです。

 

それぐらい「嘘」は罪が重いということを、子供の頃から学ぶわけです。

 

「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉まであるように、あらゆる犯罪は、「嘘」という軽い罪から始まります。

 

日本が、極めて犯罪が少ないのは、こういう部分から来ています。

 

ちなみに、「指切り」という言葉は、侍と娼婦の間で、実際にお互いの小指を切り落として、約束を誓った風習から来ています。

 

日本人が、約束というものが、いかに重たいものと考えていたかが、このことからも分ります。

 

ヤクザが、組織に迷惑をかけた時に小指を切り落とすのも、ここから来ているそうです。

 

今のヤクザは、単にお金儲けが目的になっていますが、もともと、ヤクザは孔子の仁義という言葉を大切にしていました。

 

「仁」は思いやり、「義」は我を美しくすること。

 

損か、得ではなくて、その行為が綺麗か汚いかということで判断します。

 

嘘をつく人を、日本人がよく「汚い」と表現するのは、こういう所から来ています。

 

ヤクザとは、「おいちょかぶ」と呼ばれる花札の博打で、8・9・3が最悪の得点の為、世間からはみだした者という意味で、自らを卑下して用いられた言葉のようです。

 

侍のことわざに、「武士は食わねど高楊枝」というものがあります。

 

食べるものが無くて、どんなに貧しくても、人にはそれを見せず、楊枝を咥えて満腹のふりをする。

 

苦しさを人に見せないのは、自分のことよりも、相手のことを考えているからです。

 

「義」とは、本来、そういうものなのかもしれません。