日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)
今日は、紀伊国一之宮と言われる日前國懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)にやって来ました。
総称して日前宮(にちぜんぐう)とも呼ばれ、天照大神が生まれる前の神様を指し、日前宮(ひのくまぐう)と、國懸宮(くにかかすぐう)の二つの神社が並んで建っているのが特徴です。
天岩戸に隠れた天照大神を導き出すのに使用された八咫鏡(やたのかがみ)という「鏡」(かがみ)がありますが、この二つの神社には、その八咫鏡が出来上がる前に創られた二つの試作品の「鏡」(かがみ)が御神体として祀られています。
「鏡」は「加賀(蛇)の身」という意味で「大物主命の姿」を象徴するようです。
「加賀」(かが)は刀を象徴する「利」(かが)と同義で、仏教の華厳教学(けごんきょうがく)における「理事無礙法界」(りじむげほっかい)の「理」(り)と同様の意味を持つのではないかと思います。
「無礙」(むげ)は、曇りのないありのままの姿を映す「鏡」を意味します。
日前宮(ひのくまぐう)は、「檜前氏」(ひのくまし)「秦氏」(はたし)(天照大神)の三氏族を象徴する神社で「日像鏡」(ひがたのかがみ)を祀ります。
國懸宮(くにかかすぐう)は、私の勝手な想像ですが「蘇我氏」(そがし)(素戔嗚尊)の五氏族を象徴する神社で「日矛鏡」(ひぼこのかがみ)を祀ります。
「紀氏」(きし)は日前宮と國懸宮の両方を象徴する氏族で、大伴氏(豊受大神)によって滅ぼされた「平群氏」(へぐりし)の別名で天武天皇を意味し、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)や神武天皇(じんむてんのう)を象徴する氏族だったと思います。
しかし、藤原氏との政争に敗れて清和天皇(せいわてんのう)が誕生し、「紀氏」は「源氏」(げんじ)に取って変わられます。
「紀氏」(きし)は元々は「木氏」(きし)で、神武天皇を表す橿原神宮(かしはらじんぐう)の「樫の木」(かしのき)か、あるいは中国で月にあるという香りのする「桂の木」(かつらのき)=桂男などを意味したのかもしれません。
「國懸」(くにかかす)の「懸」(かかす)は素戔嗚尊の国津神を映す「鏡」を表す言葉だと思われますが、「加賀(蛇)の巣」という意味と「懸巣」(かけす)という鳥の意味もあるようです。
「懸」(かかす)は国と国の境界に掛かる「橋」の意味で、「国の掛け橋」を表すようです。
「懸巣」(かけす)は、「橿鳥」(かけす)とも書かれ、樫の実を食べる「黒(卑弥呼)=北」、「白(台与)=西」、「青(壱與)=東」の三色の模様を持つカラスの仲間です。
南を表す鳳凰の赤以外の三色になります。
本来、卑弥呼の色は「赤」だったのですが、雨乞いの神で、雨雲は黒色だという事で、「黒」に変えられてしまいます。
「黒龍」というのが新しい卑弥呼の姿で、九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)= 闇龗神 くらおかみのかみという別名も持ち、奈良県宇陀市にある室生寺(むろうじ)の奥にある龍穴神社(りゅうけつじんじゃ)の龍穴(三穴六岩屋)に隠れた吉祥天になります。
龍穴神社のご祭神とされる高龗神 (たかおかみのかみ)は、お稲荷さんで、龍穴から出て来た皇極天皇を意味するものと思われますが、元々は八大龍王(八海)の弁財天の持統天皇が吉祥天の代わりだったと思います。
「巣」(す)は、お酒になりきらなかった「酢」(す)で、素戔嗚尊を象徴し、「酢の木」=「鋤」(すき)は素戔嗚尊を象徴した農耕の道具になります。
素戔嗚尊をご祭神とする宮城県黒川郡にある須岐神社(すきじんじゃ)は「鋤」と同じ意味になり、神産巣日神(かみむすびのかみ)という造化三神の一人となり、全国各地に祀られています。
つまり、「懸巣」(かけす)は、「巣に引っ掛ける」という意味で素戔嗚尊の後継者を意味するのだと思われます。
平群氏(天武天皇)を滅ぼした大伴氏が「懸巣」(かけす)というわけです。
素戔嗚尊の後継者となった大己貴命(おおあなむじのみこと)は、「鋤」(すき)とよく似た「鍬」(くわ)の神様で、桑名明神(くわなみょうじん)や三崎明神(みさきみょうじん)などとも呼ばれ、三重県桑名市多度町にあり、北伊勢(きたいせ)と呼ばれる多度大社(たどたいしゃ)や、桑名市本町にある桑名宗社(くわなそうじゃ)などで祀られています。
蚕の食料でもある桑の葉の「桑の菜」(くわのな)を象徴します。
日前大神(ひのくまおおかみ)は、「二つ巴」が象徴だと思われます。
浅草寺の檜前浜成(ひのくまはまなり)と檜前竹成(ひのくまたけなり)は皇極天皇と天武天皇を指して日前神宮、土師真中知(はじのまなかち)が蘇我倉山田石川麻呂を指して國懸神宮、三者を一つにして紀氏が誕生したのかもしれません。
行神社(ゆきじんじゃ)という伊久津姫命(いくつひめのみこと)を祀る「由の木」=「雪」(ゆき)を象徴する神社があります。
宮城県黒川郡富谷町にあり、「行く」は「逝く」という意味の「往生」を表し、こちらも、推古天皇を象徴する神社で、須岐神社(すきじんじゃ)とはセットにされます。
大阪の生國魂神社(いくたまじんじゃ)は活津彦根命(いくつひこねのみこと)を祀り、藤原氏の関係の神社と考えられますが、推古天皇の後継者という意味で「根」が付けられたものと思われます。
伊久津姫命は天皇家の皇祖神(瓊瓊杵尊)の母の栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)とおそらく同神で、思兼命(おもいかねのみこと)の妹とされ、共に造化三神の一人の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の子供だとされます。
日前神宮には「日前大神」(ひのくまおおかみ)と、「思兼命」(おもいかねのみこと)と「石凝姥命」(いしこりどめのみこと)の二人の神様が祀られています。
「思兼命」(おもいかねのみこと)は「重い金(かね)」を象徴し、大物主命の「物部氏」と天照大神の「秦氏」を結んだ「天穂日命」(あめのほひのみこと)=蘇我倉山田石川麻呂を表します。
天岩戸を開ける方法を考え出した知恵の神様で、物部氏を「太陽」に変えた神様です。
「石凝姥命」(いしこりどめのみこと)は「鏡」を造る職業の人物で、「思兼命」(土師氏)と「石凝姥命」(大伴氏)の二人が協力して「鏡」が生まれます。
蘇我倉山田石川麻呂は「狭井の神」(さいのかみ)を象徴し、物部氏と秦氏、そして推古天皇と皇極天皇を結びつけた「二つ巴」を象徴するものと思われます。
一方、國懸神宮の方は、「國懸大神」(くにかかすおおかみ)以外に、「玉祖命」(たまのおやのみこと)と、「天御影命」(あまのみかげのみこと)、そして「鈿女命」(うずめのみこと)の三人の神様が祀られています。
「玉祖命」(たまのおやのみこと)は「玉」(たま)という字が付くと蘇我氏かと思うのですが、「祖」(おや)が付くので蘇我氏の上に立つ「物部氏」を指すようです。
「鈿女命」(うずめのみこと)は「渦の目」で「秦氏」の中心であった推古天皇で、天岩戸が開いてからは「猪名部氏」(忌部氏)(いんべし)と名前が変わります。
裸で踊ってみんなを笑わせたという神話は、衣が剥げて権威が落ちた事を象徴するのかもしれません。
「明立天御影命」(あけたつあまのみかげのみこと)は「御影」(みかげ)の神様という意味で、天照大神(推古天皇)の姿を鏡に映した影(皇極天皇)の神様になります。
「御影」(みかげ)は「三つの影」を意味し、新しく天岩戸から出現した「宗像三女神」を指すようです。
「天御影命」は滋賀県野洲市の御上神社(みかみじんじゃ)に祀られますが、「尾の神」の「御上」(おかみ)で、「龗」(淤加美神)(おかみのかみ)とも呼ばれ、天太玉命(あめのふとだまのみこと)を象徴する「勾玉」の後継者になります。
「國懸大神」(くにかかすおおかみ)は、敏達天皇(びだつてんのう)を象徴する大国主命と、「秦氏」、「蘇我氏」、「物部氏」の三氏族を一つに纏めた「宗像三女神」を象徴するのかもしれません。
「國懸大神」は「三つ巴」を象徴するものだと思われます。
天照大神を考える場合、推古天皇(すいこてんのう)が大きく関わってきます。
推古天皇の時代は、葛城王朝(かつらぎおうちょう)が栄えた時代で、日本書紀によると、応神天皇の時代に絹織物の技術を持った弓月君(ゆづきのきみ)を日本に迎える為に葛城氏の祖である葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)という人物を朝鮮半島の伽耶(かや)という国に遣わしたとされます。
しかし、3年経っても戻って来なかったので、「平群木菟宿禰」(へぐりのづくのすくね)と、「的戸田宿禰」(いくはのとだのすくね)の二人を迎えに行かせ、無事に弓月君を日本に連れてくる事に成功したそうです。
この弓月君が秦氏となります。
また、仁徳天皇(にんとくてんのう)の段では百済王の同族の酒君(さけのきみ)が天皇に対して無礼な行いをしたので、「紀角宿禰」(きのつののすくね)が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄の鎖で酒君を縛り、葛城襲津彦に従わせて日本に連行させたと記されています。
この3年経っても戻って来なかったという「3」という数字は、葛城襲津彦を象徴する葛城氏が、「平群木菟宿禰」(忌部氏)、「的戸田宿禰」(大伴氏)、「紀角宿禰」(紀氏)の三つの氏族に分れた事を象徴するようです。
葛城襲津彦は葛城の長柄里(ながらのさと)に住み、娘の磐之媛命(いわのひめのみこと)が「蘇我稲目」を象徴する仁徳天皇(にんとくてんのう)の皇后となり、「蘇我馬子」を象徴する允恭天皇(いんぎょうてんのう)や、「蘇我小姉君」を象徴する履中天皇(りちゅうてんのう)、そして「蘇我堅塩姫」を象徴する反正天皇(はんぜいてんのう)を産みます。
反正(はんぜい)は「正しくない」という意味で、淡路島で生まれた瑞々しい美しい「歯」(は)の人物であったと書かれ、瑞歯別(みずはわけ)の別名もあったとされます。
「歯」(は)は「葉」(は)と同じく秦氏を表し、淡路島という記述で、「弥都波能売神」(みづはのめのかみ)=推古天皇を象徴する天皇だと思われます。
女王卑弥呼(じょおうひみこ)を中心とする「邪馬台国」(やまたいこく)は「邪魔な馬(蘇我馬子)を台(豊受大神)にする国」で、物部氏(山幸彦)の「山大国」(やまたいこく)という意味もあるようです。
葛城王朝は大きく分けると北部の「葦田宿禰」(あしだのすくね)の「蟻臣」(ありおみ)と、南部の「玉田宿禰」(たまだのすくね)の「円大臣」(つぶらのおおおみ)の二つになります。
北部の「葦田宿禰」の「葦」(あし)は秦氏の「足」(あし)を表し、「蟻臣」の娘の「荑媛」(はえひめ)が履中天皇の子供の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の妃となります。
「葦」(あし)は「悪し」(あし)に通じるので、「良し」という意味で「葦」(よし)と読んだりします。
吉野(よしの)や、吉田(よしだ)など、吉祥天の吉(きち)と同じ意味があるのかもしれません。
市辺押磐皇子は豊受大神を象徴する飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)と、天武天皇を象徴する顕宗天皇(けんぞうてんのう)と、天智天皇を象徴する仁賢天皇(にんけんてんのう)の二人の皇子の父親で秦氏系になります。
一方、南部の「玉田宿禰」の「玉」は蘇我氏の「勾玉」(まがたま)を表し、「円大臣」の娘の「韓媛」(からひめ)が蘇我入鹿を象徴する雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)の妃となります。
しかし、允恭天皇(いんぎょうてんのう)に仕える小墾田采女(おはりだのうねめ)という女官に衣類の下に鎧を着ている事を報告され、謀反を企んでいると滅ぼされたと日本書紀に記されています。
私は小墾田采女は架空の人物で、天武天皇を意味しているものと思います。
小墾田(おはりだ)は元々は奈良県の明日香村にあった推古天皇の宮殿の小墾田宮(おはりだのみや)のあった場所で、少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)という雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に仕える人物が雷神を捕まえたとされる場所で、雷丘(いかづちのおか)と呼ばれます。
少子部蜾蠃が亡くなると雄略天皇は、この場所に「雷神を捕えた蜾蠃(すがる)の墓」という墓標を建てたとされます。
これに雷神が腹を立て墓標を踏み倒すが、墓標に足が挟まって抜けなくなってしまい、そこを通りがかった雄略天皇が雷神を逃がしてやり、新たに「生前も死後も雷神を捕えた蜾蠃(すがる)の墓」という墓標を新たに建てたと日本書紀に記されています。
雄略天皇が皇后に「蚕」(こ)を飼育させようと少子部蜾蠃に「蚕」(こ)を獲って来るように命じたら間違って嬰児である「児」(こ)を集めてきたので、雄略天皇は大笑いをして、その嬰児達を蜾蠃自身に養育させて、