「猪狩りをする雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)」安達吟光画
話は変わりますが、古事記の神話に、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と、天菩比(アメノホヒ)と、天若日子(アメノワカヒコ)の話があります。
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は、世界を創った3人の神様の一人で、天皇家の神様です。
後の2神を紹介すると、神産巣日神(かみむすびのかみ)で、土師氏や蘇我氏などの出雲系の神様です。
そして最後は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、藤原氏の神様です。
天上界の高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は、地上を統治するために、天菩比(アメノホヒ)を使者として送ります。
しかし、天菩比(アメノホヒ)は帰ってこず、今度は、天若日子(アメノワカヒコ)を使者として送ります。
しかし、天若日子(アメノワカヒコ)は、地上の娘と結婚して、そのまま自分が地上界の王になろうとします。
高卸産巣日神(たかみむすびのかみ)は、雉の鳴女(ナキメ)を使者に送りますが、天探女(アメノサグメ)が鳴き声が不吉だと天若日子(アメノワカヒコ)に伝えると、天若日子(アメノワカヒコ)は、その雉を弓矢で射抜きます。
射抜かれた矢は、そのまま天上界まで飛んで行き、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の元に届きます。
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は、矢を持って「邪な心を持っていなければ矢は当たらぬが、邪な心を持っているならば矢に当たって死ね」と言って矢を再び地上界に向けて投げ返します。
翌日、胸を貫かれて死んでいる天若日子(アメノワカヒコ)が見つかったという話です。
「天菩比」(アメノホヒ)とは、饒速日(ニギハヤヒ)や、瓊瓊杵(ニニギ)の父である天忍穂耳(アメノオシホミミ)の弟神で、物部氏とは同族の土師氏の祖神です。
天若日子(アメノワカヒコ)は、「櫛稲田比売」(クシイナダヒメ)に夢中になった「素戔鳴尊」(スサノオノミコト)の別名で、蘇我氏を表しているのだと思います。
素戔嗚尊のモデルは、おそらく、蘇我入鹿を神格化した雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だろうと思われます。
雄略天皇は、ワカタケル大王と呼ばれ、人を処刑することが多く、残忍な天皇として知られていますが、戦争に強く、天皇家が日本の王となる基礎を築いた人です。
日本書紀に、雄略天皇が狩りに出かけた際に、猪を射殺せない気弱な舎人を殺そうとしますが、「陛下、今猪を食したいからといって舎人を斬られますのは、豺狼(さいろう)と何も違いません」と、皇后にいさめられたという話が載っていて、雄略天皇の性格をよく表しています。
豺狼(さいろう)とは、山犬や、狼のことで、残忍な人物を指します。
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安康天皇(あんこうてんのう)は生前、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に王位を継承させ、後事を託そうとしていましたが、大泊瀬皇子(雄略天皇)が、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)を、近江の蚊屋野(かやの)へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺しました。
市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の母は、葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の黒媛(くろひめ)で、葦田宿禰は加茂氏と同じく秦氏の血を引く氏族です。
雄略天皇が、政敵を殺しすぎて、清寧天皇(せいねいてんのう)の崩御した後、天皇家の血を引く人物がいなくなり、危うく天皇家は途絶えそうになります。
その時、天皇に代わって政務を行ったのが飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)で、「台与(とよ)」に当たる人物です。
その後、難を逃れて隠れていた市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子供、億計王(おけのみこ)と、弘計王(おけのみこ)の2人の皇子が見つかり、天皇家は途絶えずにすみます。
億計王が、仁賢天皇(にんけんてんのう)で、弘計王が、顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。
天若日子(アメノワカヒコ)の話に戻りますが、雉の鳴女(キジノナキメ)とは、「推古天皇」(すいこてんのう)のことで、天岩戸に隠れたというのは、崩御されたという意味で、天岩戸が開いて出て来た天照大神は、別人で、「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)だということです。
天岩戸隠れの話は、古事記では天照大神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、素戔嗚尊が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだ馬を落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまい、ここで天照大神は見畏みて、天岩戸に引き篭ったと書かれます。
しかし、日本書紀では、天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、素戔嗚尊が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。すると、天照大神は驚いて梭(ひ)で自分を傷つけ、このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったと書かれています。
梭(ひ)が陰部に刺さって死んでしまったというのは、女帝の終わりを表していて、推古天皇のことを表しているのだと私は思います。
道教や、キリスト教の終焉です。
古事記は、これらの宗教を否定すことから始まり、イザナギとイザナミの国産みの部分でも、女性のイザナミから声をかけると手足の無い蛇の姿をした水蛭子(ひるこ)が産まれ、失敗に終わり、今度は、男性のイザナギから声をかけると、成功し、たくさんの国が生まれます。
しかし、最後に産まれた火之迦具土(ひのかぐつち)によって、イザナミは陰部を火傷して命を落とします。
この水蛭子(ひるこ)も、火之迦具土(ひのかぐつち)も、物部氏の先祖の饒速日(ニギハヤヒ)の別名です。
日本書紀に、聖徳太子が亡くなる前、620年12月30日「天に赤色の気(しるし)が現れて、長さは一丈(約3.8m)あまり、雉(きぎす)の尾のようであった」と記されています。
白い雉が、赤く血で染まっているようで、天に気(しるし)が現われるというのは、「ヨハネの黙示録」を意識しているような内容です。
そして、天深女(アメノサグメ)とは、皇極天皇のことなんだろうと思います。
雉は、草に隠れる時に、頭を隠して尻尾が出ている事が多く、「頭隠して尻隠さず」のことわざもあります。
悪事を隠しても、尻尾が出ている愚かさを言います。
「草」は秦氏を表します。
「草薙」の剣で、「草」(草冠)を薙ぎ払うと、「早雉」という字が現れます。
早雉とは、伝令を伝える雉のことで、雉の鳴女(キジノナキメ)とイメージが重なります。
「宮津より 早雉(はやきじ)飛べば 天日神(あまひかみ) 急ぎ真名井に 御行(みゆき)なる」
これは、ホツマツタヱと呼ばれる日本の古文書の天の巻の6に書かれてある一文です。
宮津とは、豊受大神を祀っていた真名井神社(まないじんじゃ)のある場所で、早雉が、そこから飛び立ったということです。
宮津には、他にも、籠神社(このじんじゃ)と、麓神社(ふもとじんじゃ)があります。
麓神社(ふもとじんじゃ)は、億計王(おけのみこ)と、弘計王(おけのみこ)の2人の皇子
が祀られていて、この場所に、雄略天皇から難を逃れた2人が隠れ住んでいたそうです。
「麓」という文字を見ると、「林」に「鹿」が隠れていますが、「林」はおそらく葛城氏を表し、「鹿」は、この二人の皇子を表しているのだろうと思われます。
葛城氏の血を引く皇子ということです。
籠神社の絵馬
籠神社(このじんじゃ)は、児の神社(このじんじゃ)で、億計王と、弘計王を守った飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)、つまり豊受大神(とようけのおおかみ)が祀られていて、籠(この)は、籠(こもり)=子守りという意味と、籠(かご)=舟という意味の二つの意味を持っています。
豊受大神(とようけのおおかみ)が伊勢の外宮に移ってからは、饒速日(ニギハヤヒ)と、市杵嶋比売(イチキシマヒメ)の2神が代わりに祀られていて、共に龍神とされます。
龍が鹿(秦氏)の守り神だという意味でしょうが、饒速日は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)として、素戔嗚(スサノオ)に退治されてしまいます。
「日本略史 素戔嗚尊」に描かれたヤマタノオロチ (月岡芳年)
ヤマタノオロチは、高志(こし)の国に住んでいたと言われます。
高志が何処なのか、出雲国の古志郷(こしのさと)じゃないかなど、いろいろな説があります。
私は、三越と呼ばれる「越国(こしのくに)」(福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域)ではないかと思っています。
福井県と言うと、米の代表格コシノヒカリが有名です。
「越の国」は、古くは「高志」や、「古志」とも表記されていました。
「高」や、「古」という文字は、秦氏と関係の深い文字です。
日本の渡来人を大きく分けると、東漢氏(やまとのあやし)と、秦氏の二つの勢力がありました。
饒速日は、東漢氏(やまとのあやし)を率いた渡来人でしたが、妻にした長髄彦(ナガスネヒコ)の妹の登美夜比売(トミヤヒメ)が、秦氏系の民族です。
饒速日と縁のある地名には、「長」がつくことが多いのは、同族となったナガスネヒコから来ているのだと思われます。
「長州」(山口県)は、出雲族が多く住んだ地域で、ここにも「長」という字が使われています。
他にも「秦氏」と関係の深い文字は、「稲」、「餅」、「糸」、「貴」、「高」、「鷹」、「船」、「弓」、「弥」、「八」、「羽」、「稲」、「賀」、「香」などがあります。
「秦氏」は、稲荷大社でもお馴染みで、稲と係わりが深く、日本に稲作を持ち込んだ民族だと考えて間違いがないと思います。
日本のお米のDNAを調べると、ジャポニカ米という品種になります。
中国の春秋戦国時代には、「呉(ご)」(秦氏)、「越(えつ)」(物部氏)、「楚(そ)」(蘇我氏)という国がありました。
大阪の池田市にある呉服神社(くれはじんじゃ)など、「呉」から機織りの技術を伝えた呉服媛(くれはとりひめ)や、仁徳天皇を祀っていたり、この3国と日本は深い関わりがあるようです。
この地域の長江文明(ちょうこうぶんめい)が、ジャポニカ米のルーツのようです。
長江文明は、黄河文明(こうがぶんめい)と、かなり文化や風習が違う為、現在の中国とは違った人種が起こした文明ではないかと言われています。
孫氏(そんし)の呉越同舟(ごえつどうしゅう)という諺があるように「呉」と、「越」は仲が悪かったのですが、「楚」という一番の強国があったので、協力しないといけなかったようです。
紀元前473年に「呉」は「越」に滅ぼされてしまいますが、その「越」も、起元前306年頃に「楚」に滅ばされます。
この滅ばされた「呉」や、「越」の遺民が、朝鮮半島を渡って、日本に入って来ているように思います。
「史記」という書物に、「楚」の君の先祖は、「熊」の化身とされる「黄帝(こうてい)」の孫から出たとあり、王は、名前に「熊」の字を添えるようになったそうです。
「夏(か)」、「殷(いん)」、「周(しゅう)」、「秦(しん)」の始祖を初め数多くの諸侯が「熊」の化身の「黄帝(こうてい)」の子孫だそうで、「熊」というと、これらの国、全部を表します。
また、「春秋から戦国期初めにかけて製鉄は楚の地で興り、鉄を鋼鉄にたたき上げる技術は呉越で発達した」とも書かれていて、製鉄に長けた技術集団が、この地に存在していたことが分ります。
熊の化身とされる黄帝(こうてい)
「黄帝(こうてい)」とは、神話伝説上では、中国を統治した五人の帝の最初の帝だと言われ、中国医学の始祖として道教でも重要視されています。
現在の中国人で、「黄帝(こうてい)」の子孫を名乗る人は多いようです。
秦の始皇帝(しんのしこうてい)は、自分がこれらの五帝よりも、尊い存在であるという考えから「皇帝(こうてい)」と言う言葉を造語し、自分を、そう呼ばせました。
日本の熊本県には、ヤマト王権に従わなかった反抗的な「熊襲(くまそ)」という民族が住んでいたと言われますが、私は、これが「楚」の渡来人で、「蘇我氏」だと思っています。
熊本が、火の国と言われるのは、製鉄技術集団が火を使うからで、熊本県にある阿蘇山(あそざん)も、「阿(くま)」、「蘇(そ)」という意味です。
また、和歌山県の熊野古道(くまのこどう)や、熊野大社(くまのたいしゃ)も、「蘇我氏」が関係しています。
「熊」は、他には「隈(くま)」という字が使われることもあります。
和歌山県は、元々は「秦氏」が多く住んでいましたが、「楚」の渡来人が移住してきて、同居したのだと思います。
京都の太秦(うずまさ)にある 「蚕の社」(かいこのやしろ)、または、「木島(このしま)神社」と呼ばれる「秦氏」が建てた神社があります。
和歌山県を紀州(きしゅう)と呼びますが、「木の島(このしま)」と、「紀の洲(きのしま)」は、同じ意味です。
神武天皇が大和に入る時に、和歌山の道を三本足の八咫烏(ヤタガラス)に案内してもらうという神話があります。
八咫烏(ヤタガラス)は、八咫烏(ハタガラス)で、太陽に仕える「鳥」という意味で、「秦氏」のシンボルマークです。
秦氏を皇祖神として八氏族に分けた天照大神と素戔嗚尊の天の誓約の象徴と言えます。
三本足は天照大神が宗像三女神という三人の女神に分割される事を意味します。
「殷」の遺跡から、鴞卣(キョウユウ)という三本足の梟(フクロウ)の形をした青銅器の酒瓶が見つかっています。
梟という文字も、足は「木」で、三本足になっています。
祭祀の時に、先祖の霊にお供えするためにお酒が使用されていたようで、日本にお酒を伝えた秦氏との関連が思い浮かびます。
「殷」は、早くからお酒を製造していて、贅沢の限りを尽くした帝辛(紂王)の「酒池肉林」(しゅちにくりん)という言葉が有名です。
「紀氏」(きし)は、記紀では宇遅彦命(うじひこのみこと)の時に、紀国造りとなり、その妹の山下影姫(宇遅姫)が、孝元天皇の孫の彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)の
妃となり、その間に武内宿禰が産まれ、武内宿禰が、宇遅彦の子の宇豆彦(うずひこ)の娘の宇乃姫(うのひめ)を妃として紀角宿禰が産まれ「紀氏」となったとされます。
和歌山県「紀の国」に住む氏族で、「紀」は、「木」とも書かれます。
木の中でも最も高貴なのが「檜(ひのき)」です。
「檜」は、加工が容易な上に緻密で狂いがなく、良い芳香を長期にわたって発し、正しく使われた檜の建築には千年を超える寿命を保つとも言われる木材です。
「火(日)の木」という意味で、伊勢神宮の社は「檜」で作られていて天皇家を象徴する木材です。
また、伊勢神宮には、「檜」以外に、「杉」も多く植えられています。
「杉」は、秦氏を象徴していて、秦氏が、天皇家に一番近いことを意味します。
他の氏族を見てみると、蘇我氏が「楠」で、藤原氏が「藤」、物部氏が「松」、秦氏が「竹」、土師氏が「梅」を象徴します。
「松」は、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の子孫である賀茂氏の氏神になります。
奈良の生駒に饒速日命が天孫降臨した時に出来たと言われる「松」の苗を植えた「お松の宮」と呼ばれる神社があります。
住吉の神(ニギハヤヒ)を祀っていて、曲がりくねった松の姿が、龍を表すということなのでしょう。
「松」は、松明(たいまつ)や、松脂(まつやに)など火に関係する木でもあり、饒速日命を象徴する木だと言えます。
「竹」は、元々、古い天照大神である卑弥呼(推古天皇)を象徴しています。
饒速日命の子孫の敏達天皇(びだつてんのう)には、炊屋姫(推古天皇)との子の「竹田皇子」と、春日仲君(かすがのなかつきみ)の娘の春日老女子(かすがのおみなご)との子の「難波皇子」と、「春日皇子」とがいました。
蘇我稲目の孫にあたる炊屋姫(推古天皇)から生まれた「竹田皇子」が即位すると蘇我氏の権勢を増大させるのに有利に運ぶ事から、「竹田皇子」の即位が炊屋姫(推古天皇)の願いでありました。
しかし、敏達天皇(びだつてんのう)が崩御した時には、「竹田皇子」が幼かった為に即位が見送られ、蘇我馬子と、物部守屋の合戦の時には、泊瀬部皇子(崇峻天皇)、聖徳太子、「難波皇子」、「春日皇子」と共に馬子側について従軍しました。
この合戦後に泊瀬部皇子(崇峻天皇)は即位しますが、竹田皇子は史料から登場しなくなり、恐らくこの前後に薨去したものと思われます。
死因は不明で、この後、後を追う様に推古天皇も亡くなります。
日本書紀には、推古天皇が竹田皇子の墓に合葬するように遺詔したと書かれています。
「竹」は、そういった意味で、推古天皇にとって特別な意味があるようです。
「竹」から生れたかぐや姫は、卑弥呼(推古天皇)から王位を受け継いだお姫様という意味で、かぐや姫が、月に帰ろうとするのは、月読命(つくよみのみこと)である藤原氏の仲間だからです。
「竹」は、「武」とも書かれます。
「竹」は「草」の仲間で高市皇子(たけちおうじ)や、草壁皇子など、天武天皇と関わりが深い植物でしたが諏訪大社(すわたいしゃ)の建御名方神(たけみなかたのかみ)として「梶」(かじ)という新しい植物がシンボルとなります。
蘇我氏の残党を率いた猛々しい「虎」が天武天皇のシンボルとも言えますが、最後には蘇我氏ではなく、秦氏の赤い龍である龍田明神(毘沙門天)として信貴山に祀られる形となります。
ちなみに物部氏の白い龍は三輪山の三輪明神(恵比寿天)で、両者は紅白として皇極天皇(弁財天)に仕える二匹の龍という形になります。
最後に「梅」ですが、これは菅原道真でも御馴染みの天神(龍)を表す木です。
菅原道真の家紋は梅鉢紋(うめばちもん)と呼ばれます。
「梅」は五枚の花弁と小さな中心の花芯を入れた「六曜」(ろくよう)がシンボルの花になります。
「六」は推古天皇を象徴する亀甲紋と同じ意味があるのですが、それを「八」を象徴する「鉢」(はち)に入れる事により、「六」を「八」にするという意味があります。
推古天皇を八本足の土蜘蛛や、蛸、八咫烏など大国主命に変えるという事です。
「鉢」(はち)は「金」(かね)の「本」(もと)であり、天の岩戸を開く智慧を出した重い金の神である思兼神(おもいかねのかみ)を意味します。
政権交代の智慧を出した蘇我倉山田石川麻呂を意味します。
大阪の池田市は推古天皇の同族である「亀」の氏族である猪名部氏(忌部氏)が住んでいた地域ですが、そこにある尊鉢厄神(そんぱちやくじん)の釈迦院は、「梅」よりも「鉢」が尊い事を表しているようです。
饒速日命が天孫降臨した奈良県の生駒市は、茶筅の国内生産量が90%を越えるなど「竹」製品が地場産業となっています。
本来、日本武尊(ヤマトタケル)という名も、生駒の哮ヶ峯(たけるがみね)に降り立った饒速日命(物部氏)の別名でしたが、弟の小碓命(オウスノミコト)=蘇我氏に殺害されて、その地位を取って代わられたとされます。
小碓尊(オウスノミコト)は、兄の大碓尊(オオウスノミコト)=饒速日命を殺害するような、とても気性の荒い人物でしたが、次々と他国を平定して、ヤマト王権の地位を絶対のものにしました。
日本武尊(ヤマトタケル)は、神武天皇や、素戔嗚尊と共通点の多い英雄です。
饒速日命は天孫降臨する時に、天の磐舟(あめのいわふね)という舟に乗ってきたそうです。
正式名称を鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)と言います。
「石」と「楠(クスノキ)」で出来た「鳥」のように速く進む船だそうです。
秦氏は「鳥」を象徴していて、ニギハヤヒは、「石」を象徴しています。
蘇我氏を象徴する「楠」は、南木(ナギ)と言い、風の無い静かな海の「凪」(なぎ)を表し、イザナギを祀る神社でも、よく見られます。
反対に、イザナミは、風によって起こる「波」(なみ)を表しているようです。
「波」は秦氏(波多氏)を意味します。
「楠」に関しては、こういう話もあります。
「肥前国風土記」という書物に、佐賀県の由来が書かれていて、日本武尊(やまとたける)が、「楠」の木が生え盛るこの地を指して「栄の国(さかのくに)」と呼ぶがよかろうと言ったことが始まりだとされています。
「栄」(さか)は「坂」(さか)など「釈迦」(しゃか)を表す蘇我氏の言葉です。
「檜」や、「杉」は、成長が早く、すぐに大木になりますが、根が浅く、台風になるとすぐに倒れてしまいます。
しかし、「楠」は、成長が遅い代わりに大木になると、丈夫な「根」が張って、台風にもびくともしない強靭な強さを表します。
「根の国」(ねのくに)を治める事になった素戔嗚尊の木と言えそうです。
須賀神社(すがじんじゃ)、阿須賀神社(あすかじんじゃ)、飛鳥神社(あすかじんじゃ)、八坂神社(やさかじんじゃ)、熊野大社(くまのたいしゃ)など、素戔嗚尊の祀っている神社には、だいたい「楠」が植えてあります。
また、お寺の場合も、飛鳥時代の仏像は、ほとんどが「楠」で作られています。
インドでは仏像は、甘い香りのする白檀(びゃくだん)が使われていましたが、白檀の無い日本では、樟脳の香りが特徴の「楠」が選ばれたのかもしれないようです。
また、新羅や、伽耶(かや)では、「楠」を聖樹とする文化があったようで、百済王陵の棺が高野槙(コウヤマキ)であるのに対して、新羅王陵の棺は「楠」を材料にしていて、「クスノキ」とは、古代の伽耶語で、「神が宿る霊妙の木」という意味だそうです。
663年の新羅と唐の連合軍と、百済と倭の連合軍が戦った「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)」以降は、新羅と倭の関係も悪化しており、奈良時代は、仏像があまり造られず、平安時代になって木造仏が復活した時には、材料が「檜(ひのき)」に代わっていました。
蘇我氏は、牛頭天皇(ごずてんのう)を信仰する新羅と関係が深く、「楠」は特別な木だったのかもしれません。