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馬高遺跡(新潟県長岡市)で出土した火焔土器(かえんどき)          土偶(宮城県恵比寿田遺跡)

 

燃え上がる炎を象ったかのような形状の火焔土器(かえんどき)というものがあります。

 

縄文式土器(じょうもんしきどき)の一種です。

 

縄文式土器とは、縄目模様の土器という意味で、撚糸(よりいと)を土器表面に回転させてつけた模様が特徴的です。

 

古代の日本を象徴する土器で、この土器が作られていた時代を、「縄文時代」と呼びます。

 

縄文式土器以外にも、土偶(どぐう)と呼ばれる人形の土製品も作られていたようです。

 

古代の日本は、蝦夷(えぞ / えみし)と呼ばれるアイヌ人が住んでいました。

 

アイヌ人は、エスキモーや、インディアンと近い遺伝子を持っていて、日本の縄文時代の縄文人とかなり近い人種だと言われています。

 

アイヌ人は、熊を神(カムイ)として、イオマンテ(熊祭り)と呼ばれる儀式を行っていました。

 

縄文時代は、猪を使った祭祀が行なわれていて、猪祭りが、アイヌ人の熊祭りのルーツではないかと言われています。

 

                                                              アイヌ民族

蘇我蝦夷(そがのえみし)のように古代の日本人の名に使われたことから、「えみし」には強くて勇敢という語感が当時の日本人にはあったようです。

 

蝦夷の「蝦」は、海老という意味があり、腰の曲がった身体的な特徴を表し、「夷」の字を分解すると「弓人」になり、弓を持った腰の曲がった人という意味の、蔑称だったのかもしれません。

 

秦の始皇帝が初めた、中華思想(ちゅうかしそう)というものがあります。

 

中国が文明の中心(華)であり、周りの国の民族は野蛮で、卑しいとする考え方です。

 

中国では、代々、王朝が変わって、民族自体が変わっても、この中華思想だけは受け継がれました。

 

北は犬を表す「北狄(ほくてき)」、南は虫を表す「南蛮(なんばん)」、西は羊を表す「西戎(せいじゅう)」、東は貉(ムジナ)を表す「東夷(とうい)」という名前です。

 

この東夷が、中国から見た朝鮮半島や、日本のことで、ムジナとは、アナグマを指し、穴に住むだという意味です。

 

先ほどの蝦夷の「蝦」と似た意味の言葉で、「倭」(わ)という漢字があります。

 

日本語では「我」(われ)という意味なのですが、漢字の「倭」は、腰が曲がった人という意味です。

 

この「倭」という言葉は、中国の「魏」(ぎ)という国で書かれた「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」と呼ばれる書物に出てきます

 

この書物の中に登場する「倭」の国の王とされる「卑弥呼(ひみこ)」も、卑しいという字が使われています。

 

本当は、「日巫女(ひみこ)」だろうし、その舞台となる「邪馬台国(やまたいこく)」も、ねじ曲がっ正しくないという意味の「邪(よこしま)」という字ではなく、「矢馬台国(やまたいこく)」、あるいは「山台国(やまたいこく)」なんだろうと思います。

 

邪馬台国は、邪馬壹国とも書き、これは、女王の「壹與(壱与)(いよ)」または「(台与)(とよ)」の国という意味だと思います。

 

魏志倭人伝には、次のように書かれています。

 

倭(日本)に、女王の都とする邪馬台国(やまたいこく)を中心とした国が存在し、また、女王に属さない国も存在していた。

 

元々は、男子を王として、70年~80年を経たが、倭国全体で、長期間にわたる騒乱が起こり、「卑弥呼(ひみこ)」という一人の少女を女王とすることで、ようやく混乱を鎮めたとあります。

 

「卑弥呼」は鬼道を祭祀して人心を惑わし、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。

 

正始8年(247年)ごろに「卑弥呼」が死去すると、大きな墳墓が造られ、100人が殉葬された。

 

その後、男王が立てられるが、人々はこれに服さず内乱となり1000余人が死んだ。

 

そのため、「卑弥呼」の親族で13歳の少女の「臺與(いよ)」が王に立てられ国は治まった。

 

これは、神話でいうアマテラスと、スサノオの関係のようです。

 

実在の人物では、「卑弥呼」と、その弟の「男王」、そして「臺與」とは誰なのか、いろいろと説が分かれるところです。

 

日本の最初の女帝で、蘇我氏系の「推古天皇(すいこてんのう)」と、「厩戸皇子(うまやどおうじ)」、つまり「聖徳太子(しょうとくたいし)」が、「卑弥呼」と、「男王」ではないかという説もあります。

 

既に高齢で夫は持たずというのは、推古天皇は、75歳まで生きたのと、推古天皇が即位した時には、夫の敏達天皇(びだつてんのう)は既に崩御されていたので、夫は持たずという表現になったのではないかということです。

 

そして、「臺與(いよ)」は、皇極天皇(こうぎょくてんのう)のことかもしれません。

 

おそらく、古代から南北朝時代まで行われた斎宮(さいぐう)を最初に始めたとされる豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)と、その後を継いだとされる倭姫命(やまとひめのみこと)の関係は、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)と呼ばれた推古天皇「卑弥呼」と、天豊財重日足比売(あめとよたからいかしひたらしひめ)と呼ばれた皇極天皇「臺與(いよ)」との関係と同じだと思われます。

 

そうすると、「卑弥呼(ひみこ)」の治める邪馬台国と、「臺與(いよ)」の治める邪馬台国は、乙巳の変いっしのへん)のクーデターによる、まったく別の政権だということになります。

 

聖徳太子の厩戸皇子(うまやどのおうじ)という名前は、蘇我馬子(そがのうまこ)の屋敷で生れたからだとする説もありますが、イエス=キリストが馬小屋で生れたとされる伝説とよく似ています。

 

何故、ここでキリスト教が出てくるのかと思いますが、これは、おそらく、聖徳太子に仕えた「秦氏」の長者であった秦河勝(はたのかわかつ)影響だと思います。

 

兵庫県赤穂市坂越に、お酒の神社と言われる大避神社(おおさけじんじゃ)という神社があります。

 

中国ではダビデを漢訳して大闢(だいびゃく)と書くそうです。

 

ダビデとは、旧約聖書の「サムエル記」、「列王記」に登場する古代イスラエルの王で、イスラエルを救う救世主はダビデの子孫から出ると信じられるようになり、新約聖書では、イエス・キリストがダビデの子と言及されます。

 

現在のイスラエルの国旗にも取り入れられている六芒星(ろくぼうせい)のマークは「ダビデの星」と呼ばれ、イスラエルの王の象徴となっています。

 

蘇我氏と秦氏の全盛だった飛鳥時代には、亀の形をした遺跡がいくつも造られていて、亀になんらかの信仰を持っていたことが伺えます。

 

「ダビデの星」は、亀を上から見た形と似ていて、飛鳥時代の人々が、これを亀と認識していたのかもしれません。

 

   

     ダビデの星               麻紋

 

日本では籠目紋(かごめもん)と呼び、豊受大神の元伊勢である籠神社(このじんじゃ)の神紋であり、中央の六角形が「亀」を表す亀甲紋になります。

 

天皇家の祭祀は、推古天皇の氏族である「亀」を表す亀甲紋の「忌部氏」(猪名部氏)が祭祀を司っていましたが、それが「鶴」を表す藤紋の「藤原氏」に取って代わられます。

 

現在、「忌部氏」の神紋は諏訪大社(すわたいしゃ)と同じ「梶の葉紋」(かじのはもん)です。

 

これは御贄(みにえ)などの神饌(しんせん)を乗せるお皿を意味しますが、これは推古天皇を生贄を求めた蘇我氏系の人物に組み込む狙いがあるものと思われます。

 

徳島県鳴門市大麻町にある「忌部氏」ゆかりの「大麻比古神社」(おおあさひこじんじゃ)の神紋は「麻紋」が使用されていたものと思われ、推古天皇は秦氏系の可能性もあると思われます。

 

奈良県葛城市にある當麻寺(たいまでら)は阿弥陀如来を象徴する藤原豊成(ふじわらとよなり)の長女の中将姫(ちゅうじょうひめ)の伝説があり、推古天皇の後継者である事を暗に示しているものと思われます。

 

藤原豊成は藤原不比等(ふじわらふひと)と蘇我娼子(そがのしょうし)の長男で藤原南家(鳳凰)を名乗った藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ)の長男になり、母は阿倍貞媛となります。

 

藤原豊成には、もう一人次女がいて、こちらは「阿古耶姫」(あこやひめ)と言い、「松」を「橋」に使用した伝説が伝わる山形県(出羽国)の千歳山萬松寺(ちとせやまばんしょうじ)の人物で、「白い真珠」を生み出す「アコヤ貝」を神格化したものだと思われます。

 

「千歳」(ちとせ)は「千歳」(せんざい)でもあり、能(のう)では、春日明神(かすがみょうじん)を表し、「翁」(おきな)が現れる前に貴人の先に立って道を開く「露払い」(つゆばらい)の舞とされます。

 

雅楽(ががく)の最終曲の名称「千秋楽」(せんしゅうらく)は「千穐楽」(せんしゅうらく)とも書かれ、「千歳楽」(せんざいらく)とも同じ意味だとされます。

 

「秋」(しゅう)は皇極天皇を意味する字で、「穐」(しゅう)は推古天皇を意味する字で、「歳」(さい)はその両方の意味を含んでいるという事だと思います。

 

「松」は物部氏と秦氏の橋渡しをした蘇我倉山田石川麻呂の「八咫烏(やたがらす)」を表し、「阿古耶姫」(あこやひめ)はその娘である遠智娘(おちのいらつめ)を象徴する「玉依姫」(たまよりひめ)を意味するものと思われます。

 

童謡の「かごめかごめ」は「忌部氏」(亀)が「藤原氏」(物部氏)(鶴)に取って代わられる事を「滑る」(すべる)と表現した歌のようです。

 

中国景教(ちゅうごくけいきょう)を研究した佐伯好郎(さえきよしろう)氏は「大避神社」の「大避」は、「大闢」のことで、渡来民族である秦氏によって日本もたらされた景教(けいきょう)を祀るために建立されたものでとあると主張されています。

 

景教とは、唐代に中国に伝わったネストリウス派のキリスト教のことで、中国景教と、秦氏が繋がりがあるのではないかということです。

 

聖徳太子死後の皇極3年(644年)に、蘇我入鹿の迫害を避けて海路をたどって逃げてきた秦河勝が、千種川流域の開拓を進め、大化3年(647年)に80余歳で、この地で死去したとされ、地元の民がその霊を祀ったのが当社の創建だと伝えられています。

 

この神社には、彼が弓月国から持ち帰ったという胡王面(こおうめん)と、天使ケルビム(智天使)の像があるそうです。

 

旧約聖書の創世記によると、主なる神はアダムとエバを追放した後、命の木への道を守らせるためにエデンの園の東に、回転する「炎の剣」とともに「ケルビム」を置いたとされ、神の姿を見ることができる智恵(ソフィア)から「智天使(ちてんし)」という訳語が当てられたそうです。

 

「炎の剣」は「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)の事かもしれません。

 

秦河勝がキリスト教徒だった可能性は十分考えられますが、聖徳太子の周りには高句麗や、百済の仏教僧もいて、聖徳太子が日本に持ち込もうとしていたのは高句麗や、百済の仏教でした。

 

高句麗や、百済の仏教は、道教(どうきょう)に近く、呪術的な要素も大きかったようです。

 

道教とは、老子(ろうし)を教祖とする宗教で、「道徳経」第六章の万物は玄牝(げんぴん)から生れた」という有名な章があります。

 

玄牝(げんぴん)とは、女性の陰部のことで、万物の生みの親は女性で、女性を蔑ろにしてはいけないという老子の教えです。

 

あえて、この章を入れた背景には、当時の中国が、孔子(こうし)の儒教(じゅきょう)が主流で、男尊女卑(だんそんじょひ)の性格が大きかったことが原因に挙げられます。

 

日本では、記紀に、応神天皇が阿直岐(あちき)を介して百済から招き、千字文と論語などの儒教を伝えたとされる王仁(わに)という人物がいます。

 

阿直岐(あちき)とは、東漢氏(やまとのあやし)の別名の阿知使主(あちのおみ)と同じではないかと言われています。

 

阿知使主(あちのおみ)とは、物部氏の先祖の饒速日命(にぎはやひのみこと)のことです。

 

王仁(わに)は西文氏(かわちのふみし)の事で、大伴氏を表しているものと思われます。

 

この時代には、既に儒教が日本に伝わっていて、物部氏が権力を持っていたようです。

 

聖徳太子や、蘇我氏は、仏教によって、これを覆そうとしたのだと思われます。

 

アジアで最初の女帝、推古天皇が誕生したのも、儒教への反抗という側面が少なからずあるのではないかと思います。

 

話を少し脱線しますが、滋賀県に甲賀(こうが)という地名があります。今でも甲賀町の字名に残る「鹿深(かふか)」が語源だと言われています。

 

日本書紀には、敏達天皇13年(584年)百済から鹿深臣(かふかのおみ)が石像一体、佐伯連が仏像一体を持って来て、それを蘇我馬子が貰い受けたとされます。

 

この「鹿深臣」(かふかのおみ)の石像は、「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)だったそうです。

 

京都市右京区太秦にある秦氏の氏寺とされる広隆寺(こうりゅうじ)には、「宝冠弥勒」「宝髻(ほうけい)弥勒」と通称する2体の「弥勒菩薩半跏像」があります。

 

私はこの2体の「弥勒菩薩像」は「皇極天皇」と「天武天皇」を表していて、「鳳」(ほう)と「凰」(おう)の「鳳凰」(ほうおう)=2体のケルビムではないかと思っています。

 

本来は「鳳」(ほう)が「雄」(おす)で、「凰」(おう)が「雌」(めす)なのですが、「甲賀」の「皇極天皇」(秦氏)が「宝冠弥勒」(鳳)=「雄」で、「伊賀」の天武天皇(蘇我氏)が「宝髻弥勒」(凰)=「雌」で、男女があべこべになったようです。

 

日本書紀に、推古天皇11年(603年)、秦河勝が聖徳太子から仏像を賜ったことが記されていて、この仏像というのが、この2体の「弥勒菩薩半跏像」ではないかと言われています。

 

「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)とは世界の終わりに登場する救世主で、キリスト教の救世主信仰を取り入れたような仏教の仏です。

 

弥勒菩薩は、元々、インド、イランの「ミトラ」という火の神様が起源だと言われています。

 

ギリシャ神話では、「メデューサ」という蛇の怪物を倒した「ペルセウス」と呼ばれ、キリスト教では「ミカエル」という天使だとされます。

 

新約聖書の中で唯一預言的性格を持つ「ヨハネの黙示録」(ヨハネのもくしろく)という書物があります。

 

この中の十二章及び十三章にエデンの園の蛇の化身であるサタンが「赤い竜」となって登場し、「ミカエル」と戦って敗北するという話です。

 

この赤い竜とは、頭が七つあって、そのうちの六つの頭には、それぞれ一本の角が生えていて、中央の一番大きな頭には四本の角があり、計10本の角のある竜だとされます。

 

この竜が現れる時には、天にしるしが現れるとされます。

 

聖徳太子は、自分を「ミカエル」(弥勒菩薩)に例えて、物部守屋を「赤い竜」(ヤマタノオロチ)に例えたのかもしれません。

 

ヨハネは、イエス・キリストの12人の弟子の一人で、唯一、殉教しなかった弟子と言われ、イエスから聖母マリアを託され、聖母マリアと共に、小アジアのギリシア人都市エフェソス(現在のトルコの西部)に移り、そこで晩年を過ごしました。

 

エフェソスという都市はパルテノン神殿の4倍の大きさだったと言われるアルテミス神殿があったとされ、アルテミス信仰が盛んな都市でもあり、女神信仰の聖地でもあります。

 

パウロが伝道の為、この地を訪れた際も、アルテミス信仰をやめさせようとして暴動が起こり、命の危険を感じて、この地を離れました。

 

また、431年にキリスト教の公会議エフェソス公会議)で、ネストリウスが異端だとされ、追放されたのも、このエフェソスでした。

 

イエス・キリストの母マリアの神性を否定したからだと言われますが、本来のネストリウス派には聖母崇敬を否定する意図はなく、原理主義的教派のオリジナルの提言でしたが、対立していたアレクサンドリア総主教キュリロスにとって邪魔な存在であったため、女神信仰の強いこの地域の特性を利用し、異端のレッテルを貼ったのだと思います。

 

              福音書記者の象徴

 

イエスの教えや生涯を伝えるマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のうち、イエスの直弟子だったのはヨハネだけです。

 

4人の福音書記者たちは、伝統的キリスト教美術における象徴表現では、マルコは「獅子」、マタイは「人」、ルカは「牛」、ヨハネは「鷲」で表されます。

 

この福音書を書いたマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四人はキリストの教えを世界に伝えた「車輪」であり、イエス・キリストの「乗り物」になります。

 

これは、ヨハネの黙示録の第4章6節から8節に記されているヨハネの幻視から来ています。

 

キリスト教の解釈においては、「人」は人間としてのキリストの誕生、「牛」は犠牲の動物を象徴する十字架におけるキリスト、「獅子」は復活におけるキリスト、そして「鷲」は昇天におけるキリストであるとされます。

 

また、旧約聖書のエゼキエル書にも、預言者エゼキエルが「人の顔」、「獅子の顔」、「牛の顔」、「鷲の顔」を持った四枚の翼を持つ天使と出会ったことが書かれていて、これがケルビムだと言われ、「赤い竜」として反逆する前の姿だとされます。

 

「赤い竜」はブリトン人(ケルト人)を表し、キリスト教を広めるサクソン人が「白い竜」になります。

 

「車輪」は古代ケルト人の信仰した雷神「タラニス」や、月の女神「アリアンロッド」のシンボルになります。

 

ブリトン人は四輪の「車輪」のうち、前輪の軸の向きを変えられるようにして馬車が方向を変える時に自然に曲がれるようにしたり、木の「車輪」の外側に鉄の「輪」を取り付けるスポーク構造の「車輪」を発明したり、ヨーロッパに馬車の文化を普及させました。

 

ケルビムと共に描かれる「車輪」は、この「赤い竜」の「車輪」になります。

 

この「車輪」の回転は「太陽」の「朝」(光)と「夜」(闇)の繰り返し、「死」と「再生」のシンボルとなり、やがて「死」と「復活」のイエス・キリスト=フェニックス(不死鳥)と結び付いていく形となります。

 

「月の車輪」(アリアンロッド)は「太陽の車輪」(サン・クロス)=「ケルト十字」と形を変えて生まれ変わったようです。

 

ケルビムと共に「生命の樹」を守る「炎の剣」はブリトン人の伝説の「アーサー王」の持つ「エクスカリバー」なのかもしれません。

 

「エクスカリバー」は英語ですがウェールズでは「カレトヴルッフ」と言われ、「アーサー王」が「湖の乙女」(ヴィヴィアン)と呼ばれる「水の妖精」から貰い受けます。

 

「湖」は古代製鉄(ラ・テーヌ文化)の原料である「褐鉄鉱」(かってっこう)が採れる所で、ブリトン人はその技術に秀でていたと言われます。

 

ウェールズ神話を伝える「マビノギオン」の「ロブナイの夢」では「カレトヴルッフ」の名前は出ないものの、「アーサー王の剣」としてその姿が描写されています。

 

剣身には黄金の「二匹の蛇」が打ち出されていて、鞘から抜くとこの「二匹の蛇」の頭から二筋の炎が立ち上がり、恐ろしさのあまり、誰も直視する事が出来なかったとされます。

 

「カレトヴルッフ」は「剣」本体もさる事ながら、「鞘」(さや)も魔法の力が宿っていて、身に付けているとあらゆる傷を癒して「不死身」になるとされ、まるで「フェニックス」の「ケルビム」のようです。

 

尾張氏(天武天皇)の持つ「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)は「八岐大蛇」(やまたのおろち)の「尾」から出て来た「素戔嗚尊」の持ち物だとされます。

 

当初は「素戔嗚尊」はおそらく「ミカエル」を意識した太陽神だったものと思われます。

 

「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)を御神体としていた熱田神宮(あつたじんぐう)の「熱田」(あつた)は火のように燃える田んぼで、「赤米」(あかごめ)の真っ赤な稲穂=「赤穂」(あこう)を意味したのかもしれません。

 

「赤米」は「黒米」と共に古代米(こだいまい)と言われ、昔の「赤飯」はこのお米で作られていて、「酒」の原料としても使用されていました。

 

奈良市高畑町にある赤穂神社(あこうじんじゃ)では、天武天皇と額田王の子の「十市皇女」(とおちのひめみこ)と、天武天皇に嫁いだ藤原鎌足の娘の「氷上娘」(ひかみのいらつめ)が「赤穂明神」(あこうみょうじん)として祀られています。

 

現在は藤原氏の神社となっていますが、元々は天武天皇の神社だったものと思われます。

 

「氷上娘」は天武天皇の生前中は「火上娘」(ひかみのいらつめ)であったものを「氷」に変えたものと思います。

 

素戔嗚尊を祀る氷川神社(ひかわじんじゃ)も「赤い竜」から「氷」の「白い竜」に変った事を表しているようです。

 

白龍明神(はくりゅうみょうじん)は皇極天皇の事で、天武天皇を吸収した形になるようです。

 

大避神社」(おおさけじんじゃ)のある「赤穂」は「塩」の産地として知られるようになります。

 

「赤米」(赤)の代わりが「塩」(白)というわけです。

 

「塩」は穢れを祓い清める力があるとされ、「藤原鎌足」を象徴するものになります。

 

「塩」は冷蔵庫のなかった時代には食料を保存する重要な物資で、ヨーロッパで大航海時代の長旅を可能にしたのも「鱈」(たら)の「塩干」(えんかん)=「バカラオ」という保存食が生まれたからだとも言われています。

 

「鱈」は脂分が少ない為、「塩」を浸透しやすい魚で、水分が完全に抜けた「塩鱈」(しおたら)はカビも生えず数年は腐らないと言われます。

 

ヴァイキングの資源であった「鰊」(にしん)や「鱈」にドイツのハンザ商人が目をつけて独占して、それが「塩干」としてヨーロッパに普及したようです。

 

カトリックはキリストが十字架に架けられた聖金曜日には肉を食べない風習があり、代わりに貴重なタンパク源として「魚」が食べられる事が多く、「フィッシュ・オン・フライデー」(金曜日は魚の日)なったようです。

 

「魚」は「肉」ではないという考えです。

 

イギリスの「フィッシュ&チップス」も「鱈」を食べるようになった事が始まりです。

 

「鱈」は蘇我倉山田石川麻呂で、「鰊」は天武天皇で、「塩」は藤原鎌足のようです。

 

「鰊」(にしん)は「鯡」(にしん)とも書かれ、「魚では非らず」=「米」だと言われ、お腹の「白」の部分は田んぼの肥料となる「鰊粕」(にしんかす)となり、背中の「黒」の部分は「身欠き鰊」(みがきにしん)で、皇極天皇を表す「昆布」(黒)で包まれたり、蘇我倉山田石川麻呂(荒神)を表す「蕎麦」(黒)と一緒に食べられたりします。

 

「身欠き」(みがき)や「磨き」(みがき)であり、「鏡」を磨く草であった「黄金草」=「黄」の「酢漿草」(かたばみ)になります。

 

「鏡」は「秦氏」の「八咫鏡」(やたのかがみ)であり、「八幡神」(はちまんしん)=皇極天皇を意味します。

 

二上山(にじょうざん)の「皇極天皇」と「天武天皇」の関係になり、天武天皇の氏族は「酢漿草紋」(かたばみもん)を使用するようになります。

 

「鱈」の話に戻りますが、「鱈の塩干」を最初に始めたとされるのはスペインの山岳地帯に住むバスク人で、言語がどの国の言語系統にも属さないという点で日本語と似ていて、キリスト教を日本に伝えに来たフランシスコ・ザビエルがバスク人であったというのも何か不思議な因縁を感じます。

 

司馬遼太郎の短編小説の「奇妙な剣客」は、バスク人の主人公ユイズが自分たちのルーツは日本ではないかと思って日本にやって来るというフィクションですが、バスク人の中に自分たちとどこか似た部分があると司馬遼太郎は感じとっていたのかもしれません。

 

ザビエルの布教は失敗に終わり、日本はキリスト教の国にはなりませんでしたが、「鉄砲」などの西洋文明に接触した事で、明治維新が起こり、「脱亜入欧」(だつあにゅうおう)の近代文明へと発展する切っ掛けとなりました。

 

これも、フランシスコ・ザビエルという一人のバスク人のお陰かもしれません。

 

先進国首脳会議の「G7」の国の中で、キリスト教でない国は日本だけで、何故、人種差別の激しい西洋人が同じテーブルに日本を座らせているのかがとても不思議に思います。

 

それは非同盟政策を進めていた孤高の国イギリスが日本を同盟国に選んだ事がそもそもの原因なのかもしれません。

 

おそらく、日本人の根本に西洋人と同じルーツ(エデンの園)を感じているのかもしれません。

 

    智天使ケルビム

 

縄文時代に行く 2 へつづく…